カテゴリ:アジアの紙の道( 7 )

 

「アジアの紙の道」 ⑧

10.北の紙の道、南の紙の道
 日本だけでなく、紙を専門に扱う欧米の芸術や修復の専門教育の場で、今もダード・ハンターの「紙の道伝播マップ」しか使われず、進歩していないことは驚きである。また、マップ上に空白の状態となっているアジア地域の尊厳のためにも非常に惜しまれる状況と思います。
 かって、「北の紙の道」の発見がヘディン、スタイン、ベリオ、大谷など多数の探検隊の派遣と巨額な資金の注入の成果に基づくものであったように、「南の紙の道」の大いなる発見にも、多数の調査隊、チャレンジャーの必死の苦労と大きな資金の注入が必要となるのだろう。必ずや、発見の小さな痕跡が点となって増えていき、いつか点から線に、そして面に発展していかなければならない。

 この10年余のフィールド調査においても、猛烈な開発の波に流され、点すらも探すのがやっと、という状況であった。中国、韓国、日本などを除くアジアの地域には、あたかも古き時代には紙の文化がなかったような錯覚に陥る。
 思い出すことは、今から10年ほど前にインドネシアに文書の調査に出かけた時、インドネシアの紙文化はヒンズー教の貝葉文書を除けば、ポルトガル人やオランダ人が来て以降に始まり、国立図書館の蔵書も17世紀以降のものばかりである、というレクチャーを受けた記憶がよみがえる。やっとこの10年の調査研究で、インドネシアにも古くから貝葉文書以外のカジノキを使ったダルワン紙やワヤン・ベベールの存在が知られるようになり、認識はずいぶん変わってきた。

 ベトナムにおいても、ベトナム製紙の起源は3世紀頃に遡るとハノイの歴史博物館展示には書かれているが、ベトナムの紙の歴史についての著述は武有識氏の「河西省-芸の里、文の里(第一集 安穀の古伝紙芸)」くらいで、ハノイより北方地域やホイアン近郊中部地域など、ほとんど調査がされておらず全容は明らかにされていない。
 かって、ダード・ハンターは、まだ古き佳きハノイの手漉き工房が多く残っていたランブオイ、イエンタイを訪問し道具などを入手している。しかし、ベトナムの手漉きに特徴的な原料DoやネリMoなどについては一切言及していない。さらに、ベトナム最高の皇帝の紙であるガンボウジで染め、両面に吉祥文様を金銀で描いた50cmx130cmほどの龍騰紙(SAC paper)についての記述が全く見られない。
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 これまでのフィールド調査研究によって、素材の調査研究と共に、この龍騰紙を特権的に製作してきた頼家(調査時点で20代目Lai Phu Bang、初代は1460-97年)が中国から来て500 年以上の歴史を連綿と刻む家譜を所持する、世界でも稀有な伝統紙製作の家柄であることが判明した。(龍騰紙については、『アジアにおける歴史的文書史料の修復保存総合調査第2回調査団報告書』に科学的データを加え少し書かれているが、詳細を書いたものはまだない。)

 今後の「南の紙の道」の調査研究が進展することにより、多くの南方文化のナゾが解明され、古代からの南方ならではの製紙原料や技法の多様性、歴史性が明らかになってくるだろう。それは同時に、アジア地域でこれまで紙の文化がなく文化的貧困地域と烙印を押されていた地域に誇りを生み出す。それにより、実態と大きくずれてきてしまった「紙の道」というものの多様性が理解され、全体像が是正されていくことであろう。
 願わくば、生きた化石の痕跡が消滅してしまう前に、遅れている「南の紙の道」研究を盛んにすることは必要とされる。

付記 
 フィールド調査の多くは、国際交流基金アジアセンターの画期的な助成で行われたものであり、『アジアにおける歴史的文書史料の修復保存総合調査第2回報告書』(1998年)、『ベトナム中南部における少数民族歴史文書現地調査』(2001年)、そして『季刊和紙』17号(1999年)「ベトナムのモーは魔法か? 雲南手漉き紀行」、19号(2000年)「インドネシアの幻の紙ダルアン」、『ACADEMIA』No.71号(2001年)「ヴェトナム・チャンパ王国と歴史文書」、『吉備国際大学社会学部研究紀要』12号(2002年)「ヴェトナムにおけるチャム、ラグライ族の伝統文書と製紙技術」などとして報告された。今回それらに、その後のフィールド調査や文献調査の成果を加えた。                                         《完》
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by PHILIA-kyoto | 2007-09-05 13:34 | アジアの紙の道  

「アジアの紙の道」 ⑦

9.聖なる木、カジノキ 
  ヒンズー教聖職者のみならず、古代人がどのような理由でカジノキを特別視し、使うようになったのか今は分らない。しかし、カジノキが単なる有用樹木の枠を超え、世界各地で特別な聖なる木として扱われてきたことを、各地の事例は物語っているように思える。
 カジノキとの古来からの特別の関係は、東アジアの国々でカジノキ、靭皮繊維を和紙など製紙に使う発想を生み出す機会を増やしたことが考えられる。

  ここでは、東北の白石で紙子製作をカジノキを使い、生業として長くやってこられた片倉信光氏の晩年の研究の一端を小林良生著『和紙周遊』282頁から紹介しておこう。片倉氏はハワイのタパ研究家マリア・ソロモンさんとも交流され、広い視点からカジノキを終生探求してこられたようだ。その中で「カジは、マオリと称して、死者や神をお祀りするときに用いたものである。この慣習が〆縄になったと思われる。地名で、由布というのは木綿(ゆふ)、すなわちカジが生えていた場所をさすのではないか。また、一方、木綿というのは「忌み」であり、神に捧げるものを区別していたのではないか。木綿(ゆふ)だすき、木綿(ゆふ)肩衣、木綿(ゆふ)しでなどがこれに当たる。「古語拾遺」の麻、カジを植えたという忌部氏は、これらのことからカジの職業集団でなかったか。一方、神に対して用いた木綿(ゆふ)なる言葉に対して、一般の民間の人は、これをカチといった。カチ浦→カツ浦、カツ山、カチ沼、カチ田など多くの地名が残っている。白石市の郊外刈田郡もカジタ郡→カッタ郡となったのではなかろうか。馬と馬鍬を連結する紐にコウゾの皮を使用した。それと同時に、船の櫂を縛りつけていたものは、縄楮(かじ)であったので、これを楫(かじ)というようになったのではないか。栲縄(たくなわ)、栲綱という言葉は、朝鮮語のタクナム、クチナムと同じであり、コウゾのことをTakといっている。この表現は裏日本、特に出雲風土記に多い。これと妙と関係づけることも考えられる。」とある。
  神に捧げるものを区別して、カジノキで作った木綿(ゆふ)だすき、木綿(ゆふ)肩衣、木綿(ゆふ)しで、とする用語の特徴は、はるかインドネシア・バリ島のヒンズー教世界の中に痕跡をとどめる聖職者の着衣がカジノキで作られてきたことと、何か共通性が見出せるのだろうか。

 本の最後の方で、日本の『万葉集』などの和歌に使われてきた妙、白妙、栲領(たくひれ)などの用語とタパとの関係を探る菊岡保江共著の『タパ・クロースの世界』(1978年)。これまで織り布と通説化されてきたものが、タパのような樹皮布であった、とする解釈が海外でフィールドワークをしてきた方々から出されてきている。
  また、前掲『和紙周遊』の著者の小林良生氏は専門的な立場から、カジノキの靭皮は、組織的に網状構造をなし、その紡糸技術は、麻や綿花より一段と難しい技術を要求される。このような紡糸し難い原料から、なぜ織布しなければならないのか、その必然性に疑問がある。「織り」に対して、「叩き」は、はるかに簡単な技法であり、カジノキには特に適した技法である、と指摘する。 しかし、現段階では、まだまだ判断材料が少ない。

  樹皮布タパの言葉の発祥の地ポリネシアやハワイ諸島における冠婚葬祭など、神聖な行事に必ずカジノキで作られたタパを用いることなど、カジノキの古代世界に生きる神秘性については、別の機会とする。
f0148999_065794.jpg  今後、韓国、中国や南北アメリカ、アフリカ大陸にまで分布する世界各地のカジノキ情報を総合的に交流させてみることは大事であろう。

  日本の暮らしにもカジノキはいろいろなところに根を下ろしていて興味をかきたてるが、毎年京都の冷泉家で行われる乞巧奠(きっこうてん)という平安時代からの儀式にカジノキの葉が重要な役割を果たしていること、諏訪大社の上社、下社の社紋がカジノキの葉であること、などはよく知られている。

諏訪大社社紋 
画像右上:上社4本株カジノキ 右下:下社5本株カジノキ

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by PHILIA-kyoto | 2007-09-05 00:25 | アジアの紙の道  

「アジアの紙の道」 ⑥

7.ヒンズー文化とイスラム文化をつなぐワヤン・ベベール
 イスラム化の進んだインドネシアで、ヒンズー時代とイスラム時代の接点に位置し、研究素材として非常に重要な存在が、影絵劇ワヤン・クリのルーツとされる「ワヤン・べべール(絵巻物)」である。f0148999_12191793.jpg松本亮著の『ワヤンを楽しむ』によると、東ジャワに点在するチャンディのレリーフにはワヤン・ベベールのように、「アルジュノの饗宴」などを題材に、つながって絵巻のように描かれたものも紹介されている。ワヤン・ベベール自体からは分らない事が、寺院のレリーフや周辺情報から明らかになることも多いように思われる。しかし今のところ、ワヤン・ベベールは、数百年の民族の記憶をとどめ、インドネシアのアイデンティティを形成する国民遺産でありながら、まだよく由来や歴史が判明しておらず謎に包まれている。

Pacitanのワヤン・ベベール計測表<素材はすべてダルワン>
<巻数> <全寸サイズ(縦x横)>       <厚み>日本の新聞紙の厚みが0.08mm位
 1     69x357cm               0.11-0.14mm
 2     75x327cm               0.07-0.13mm
 3     70x337cm               0.10-0.14mm
 4     66x335cm               0.09-0.15mm
 5     70x312cm               0.09-0.14mm
 6     72x240cm第23番フレームまで   0.10-0.14mm

f0148999_1218554.jpg  ダルワン製の絵巻ワヤン・ベベールが東ジャワのパチタンでは6巻で1組の物語とされ、ガムランの演奏に合わせてダラン(語り手)が物語を語る。現在、インドネシア全域で2組しか残っておらず損傷がひどいことから、そのオリジナル形態での保全と修復を呼びかけている。(2007年6月4日NHK-BS1アジアクロスロードなどで報道。)
  なお、インドネシアの樹皮布文化において、白くて良質なカジノキを用いないで、パンノキや菩提樹の樹皮を使っている事例もニアス島などに見られるが、カジノキの入手できない地域では樹種を変えていったのであろう。
 
8.科学的解明が必要なクワ科製紙原料
 日本の主要和紙原料であるコウゾは、植物分類の上からクワ科(Moraceae)で、カジノキ、ツルコウゾ、ヒメコウゾなどと同じコウゾ属である。新しい植物図鑑では、コウゾは渡来のカジノキと在来のヒメコウゾの交雑種であると説明されている。だが、植物図鑑を見ながら、専門外であるがクワ科のコウゾについては、植物学のアキレス腱がありそうな思いがある。

 日本の三内丸山遺跡、八幡崎遺跡、福井の鳥浜貝塚遺跡、福岡の四箇遺跡など日本各地の3000年ほど前の縄文遺跡(今のところ晩期以降)からカジノキやコウゾと同定された実が大量に、時には敷き詰めたように沢山出土している例が報告されている。食用か酒造りの原料であったと考えられている。日本国内では雌雄異株のカジノキは、雄、雌両方の木が揃って確認されていることが多い。日本各地の遺跡から実は出土しているが、現時点では、カジノキの原産地や世界の伝播経路はよく分かっておらず、世界のいくつかの場所では雌の木だけしか存在しない地域もあり丸木舟に乗せて運んだ等、伝播経路を考えさせられる。

  ここでの問題は、雌雄同株のコウゾが日本において栽培用に交雑誕生したもので、韓国や中国でのコウゾという名称はカジノキの一種か、日本から逆に伝播していったものか? 渡来人によって日本にもたらされ増産された可能性のあるのはカジノキかコウゾか、どのような種類のものであったか? よく分らない。 
 カジノキがBroussonetia papyrifera、ヒメコウゾがBroussonetia kazinoki、コウゾがBroussonetia papyrifera x Broussonetia kazinokiと学名がつけられたが、カジノキとヒメコウゾの学名に見られるように命名段階でも混乱があり、日本の和紙業界では、古くからの漢字表記や呼び名の混乱、混同にみられるように、外見だけでは判別が難しいカジノキやコウゾを無秩序自己流に扱ってきた感じがある。そのため、日本の和紙製紙技術の由来、使用原料植物の特定やルーツ解明を難しくしているようだ。このことは、今後の、日本の国宝、重要文化財の料紙、美術工芸品の修復の世界にも問題を広げていく。
f0148999_12492373.jpg  確かにこの解明は、これまでの研究分析手法では難しく、特に、クワ科の繊維は顕微鏡分析で染色してもカジノキもコウゾも同じように見えてしまうようで、厳密な解明のためにはDNA分析などの最新手法を用いていく必要がある。<文書のDNA分析については、東京外国語大学『史資料ハブ』第3号(2004年)論考「インドネシア・ダルワン文書とDNA分析」、日本文化財科学会第24回大会(2007年)発表「文書及び紙文化遺産のDNA分析を用いた素材分析法について」に概報がある。>
 今後やれることとして、日本のみならず、台湾、韓国などでも混乱し悩みの種の、クワ科のカジノキ、コウゾ、ヒメコウゾについて、植えて数年すると花や実をつけていくので、世界各地で「花と実の観察年月日と場所を記録し写真に残す」地道な活動を展開することは、誰にでも簡単に出来ることであり、研究上大事な蓄積データとなるだろう。 聞いた話として、ヒメコウゾの例だが、雌雄同株で一本の木に雌雄の花が観察できるが、時には一箇所程度しか雄の花がなく、見落としてしまうことがあるので、木の全体を注意深く観察しないといけない。加えて葉や幹の写真もデータとして役立つが、これは、一本の木でも複雑で、迷宮に迷い込む場合もあり深入りしない方が身のためらしい。
 其の上で、DNA分析を含む様々な科学的調査法を用いた研究の進捗が、植物学の領域や「紙の道」を解明していく上でのクワ科の混乱を解消してくれると期待している。
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by PHILIA-kyoto | 2007-09-04 13:10 | アジアの紙の道  

「アジアの紙の道」 ⑤

6.ダルワン紙の起源はどこに? 
  樹皮紙ダルワンは1960年代頃までインドネシア各地で細々と生産されており、かのダード・ハンター氏も東ジャワのポノロゴにある製作場所を1920年代に訪問し、資料を収集してきた。ダード・ハンターの『Primitive Papermaking』(1927年刊Chillicothe版)に載った記念写真を撮ったポノロゴの建物は現存しており、その建物の近くには昔ダルワンを製作したことのある老女が存命であった。老女の家の中には天井に竹を固定し、スプリング様の竹の先端に巻貝を付けてダルワン紙の艶出しを効率的に行っていた作業痕も残っていた。しかし、周囲には今ではカジノキは一本も見つからない。かってダルワンの有名な生産地であったマドゥーラ、ポノロゴ、ガルートなど全ての場所においてカジノキが消えてしまったのは何故だろうか? 日本や沖縄、台湾などでは、刈っても刈っても旺盛に繁茂していくカジノキが、インドネシアで見られなくなったのは不思議である。
 ダード・ハンターの1927年の本に添付されたサンプルは、当時すでに採取地(マドゥーラ、ポノロゴ、ガルート)での製造技術が落ちていたのか良質ではない。オランダ・ライデン大学には16世紀末に収集された入手経緯の明らかなダルワン本が保管されている。また、ハワイ大学のウリ・コゾク氏によればC14年代測定法により14世紀頃のものとされるダルワン文書がスマトラ島クリンチで発見されたとする。
 ダルワン紙は和紙を扱い慣れている方でも、漉いた紙と見紛うほどであるが、製法はタパ同様に打ち延ばして作られる。製作法については、簡単に季刊和紙第19号「インドネシアの幻の紙ダルアン」に紹介されている。和紙と同じ原料であるカジノキを使うが、技術の発展という観点からは、ダルワン紙のように一枚一枚叩き延ばす手間のかかる製法は、澆紙法よりも面倒であるのに、最近まで生産が続いたのは何故であろうか?どうして、効率的な抄紙法に転換しなかったのだろうか?インドネシアの人々の気質か、あるいはもっと大きなダルワンを作り続ける動機があったのか?
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f0148999_122488.jpg   ヒンズー教の全盛時代にダルワンが大きな役割を果たしていたことは疑いないが、その起源がインドネシアにあるのか、別の地域から移入されたのか、そのあたりも判然としていない。現存する東ジャワのマジャパイト時代の遺跡で見つかったとされる珍しい「文様の刻まれたタパ・ビーター」(文様の付いていない、同じ形のタパ・ビーターはジャカルタの国立博物館に収蔵されている。)が、いつか文様が解明され、素材面から謎を解いてくれる時が来るかもしれない。

  ジャワ島のみならず、アチェなどインドネシア各地に今日も残るダルワン紙の本は数百冊あるが、ほとんどがコーランなどイスラムの宗教関連のものである。ヒンズー文化の中で花開いていたダルワン製作技術を新興イスラム勢力は、うまく技術を取り込みインドネシアやマレー文化圏において、積極的に活用していったように思える。
  これまでの調査で、ダルワン紙の文書はインドネシアだけでなく、ベトナム中部タインビン県レッタイン社のチャンパ王国の末裔たちの山岳集落からも発見されており、他のイスラム文化圏など各地で発見される可能性はある。
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by PHILIA-kyoto | 2007-09-04 01:24 | アジアの紙の道  

「アジアの紙の道」 ④

4.ジャワの古文献に見られるダルワン
 インドネシアのジャワ島では、9世紀頃のヒンズー王国時代にカジノキの樹皮で樹皮布(ジャワではDaluwangまたはDaluangと呼ばれ、地域名が各地にある。樹皮布と樹皮紙の境界線は明確ではない。)を作って着る伝統があったことが研究者ピジョーらにより複数のジャワ語古文献に見出されている。9世紀というと、世界遺産プランバナン寺院が創建された頃になる。<9世紀頃のカカウィン「ラーマヤナ」には、聖職者の衣服と考えられるダルワンの用語がある。> また、<12世紀の「ボーマ・カウヤ」「スマナサンタカ」にもダルワンの記述が見られ、13世紀の「サルワ・ダルマ」にはダルワンの原料となるカジノキは聖職者の家の周囲に植えるものとある。14世紀の「ラジャパティグンダラ」には、ダルワンの生産、販売、使用は聖職者が独占的に行い、売買の税金は聖職者のため用いられたと書かれていたとある。17世紀の「ヒカヤット・ホントゥア」には、ダルワンの服と頭巾を被った、武勇に優れたラクサマナが空から飛んできた話も紹介されている。>
 このように、ここで注目されることは、当時のカジノキの樹皮製品はヒンズー聖職者の特権的に着用するもので、一般庶民の着れるものではなかった点である。カジノキの衣服に特別神聖な意味が込められていたことを窺わせる。

5.バリのヒンズー教に見られるダルワン 
 ジャワ島にヒンズー王国を築いていたマジャパイト王国はイスラム勢力に追われ、16世紀にはヒンズー教徒たちはバリ島に逃げていき、王国を築いていった。
 現在、一般の人々には垣間見れないが、バリのヒンズー教儀式にはウランタガと呼ばれるカジノキの樹皮布(紙)が随所に使われていることを見聞出来る。ヒンズー教の聖職者が着用するケトゥ(頭巾)、スレンバン(タスキ)、イカット・ピンガン(腰巻布)。そして葬儀に際し死者にすっぽりとかぶせるカジャも昔はウランタガ=ダルワンであった。 f0148999_20504937.jpg切り紙細工のようにして作られるクプクプという人とおぼしき形のものもダルワン製である。
 さらに、ヒンズー教聖職者が使う文字と絵の描かれた大きな宗教カレンダーもダルワンで出来ている。特別に見せてもらったものは150年以上昔のもので、顕微鏡繊維分析およびDNA分析でカジノキ樹皮であることが科学的に実証されている。
 バリ島での文書は椰子の葉の貝葉に書かれたものが多く、貝葉文書文化圏として知られているが、埋もれたカジノキ樹皮文化の痕跡がまだまだ見つかるかもしれない。後述するが影絵劇ワヤン・クリの源流とされるワヤン・ベベールについても、バリ島へ逃げていったヒンズー教の人々は携えていったかもしれない。
 今のところ、ヒンズー教文化とカジノキ樹皮との関係はインドネシアでしか確認されていないが、今後、ヒンズー教の源流であるインドや経由地スリランカなどでの調査研究成果が待たれる。なお、現状では、本来ヒンズー教聖職者にとり重要であったはずのカジノキ製のウランタガがバリ島では入手困難になったため、パンノキや紙などで出来たウランタガで代用されている。
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by PHILIA-kyoto | 2007-09-03 20:59 | アジアの紙の道  

「アジアの紙の道」 ③

3.製紙の起源と樹皮布文化 
 1963年に台湾の凌純声(Ling,Shun-Sheng)中央研究院民族学研究所所長(当時)による「樹皮布印文陶與造紙印刷術発明」という論文が発表された。この論文において、台湾阿美族にカジノキを用いた樹皮布を製作する技術が発見されたこと、また台湾各地で出土したいくつかの打棒石器は樹皮布製作用のものであり、中国の古文献研究から、樹皮布文化の起源は中国にある、との新説を発表した。数千年の歴史を有する樹皮布文化と造紙の関係に新しい息吹を注ぐ可能性もあったが、研究半ばで凌氏は他界し論議を深めることができなかった。凌氏と交流のあった台湾の著名な紙研究者陳大川氏は、樹皮布製作の中で樹皮の微細なカスが偶然にシート状に集まり紙の発見になったとの仮説を出しておられたが、実証されていない。
 凌氏の発表に対し、国立台湾大学の宋文薫教授らにより「樹皮布製作用とされた打棒石器は陶器に文様を刻む用途のものであった可能性が高い」として反論が出され現在に至っている。

 2006年11月に台湾中央研究院CAPASにお世話になり文献調査と共に、国立台湾大学の研究室で宋名誉教授にお目にかかり、同様の見解を確認した。2007年2月には、カジノキの植生と歴史についての調査を行った。台湾では、カジノキは島内全域各地に旺盛に繁茂している状況が見られたが、花や実を見ることが出来ず、雄、雌の分布などは確認できなかった。中央研究院で入手した文献からは、カジノキは古来から鹿仔樹と呼称し、部族毎にも名称があり、阿美族では総称としてrolang、雄株をtunvl、雌株をavonoと呼び、雄、雌の樹皮で用途を区別していたとのことで、かなり、カジノキを用いた樹皮文化が豊かであったことを窺わせる。しかし、台湾の製紙の領域にみられるように、コウゾとカジノキの名称が混乱していて、植物学的には未解決の状況となっている。
 台湾で相次いで発見されている新石器時代の打棒石器については専門外であるが、インドネシアでの樹皮布・樹皮紙および道具の現地調査の印象から、打棒石器の大きさ及び形状から、陶器の空気抜きや刻印に用いられた石器も存在することを考えるが、フィリピンで発見されている樹皮布製作用石棒(Tapa beater)の事例からも、樹皮布製作用が多いと考えるのが妥当ではないかと考えている。
 今後、中国大陸各地で古代に広く見られたであろうカジノキを使った樹皮布文化が、靭皮繊維を使う製紙技術につながる可能性も無視できず、台湾や香港中文大学の鄧聡氏らの考古学研究者により、台湾の卑南(Peinan)など新石器時代遺跡から多く出土している有槽石棒(Grooved stone baton)の調査研究が進み、世界に広がる樹皮布文化地域との情報交換により、樹皮布文化と造紙についての新発見が出てくることを期待したい。

 次回では、樹皮布と樹皮紙が同じ地域で製作されてきたインドネシアでの調査現状を紹介しておこう。
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by PHILIA-kyoto | 2007-09-03 11:03 | アジアの紙の道  

「アジアの紙の道」 ②

2.澆紙法と抄紙法
 古代以来の製紙技法は、欧米の近年の区分及び久米康生氏の著述を参考にし、大きく分けて「澆紙法(潑入法)」と「抄紙法(撈紙法)」に区分すると説明しやすいと思われる。
 まず澆紙法(pour method)とは、枠に固定した布の漉き簾を、水を張った穴や水槽の上に浮かせて、水に分散させた繊維を上から注いで手などで繊維を分散させ、枠に固定した布の漉き簾を水平に持ち上げ、水を切ってから枠に固定した漉き簾のまま屋外で、斜めに立てて乾燥をさせる方法である。そのため、枠に固定した漉き簾の枚数分しか製紙ができない生産性の低い方法となる。その分布は中国、雲南、タイ、ネパール、チベット、ブータン、ベトナムなどの地域に見られるとされる。 
 次に、抄紙法(dip method)とは、現代の和紙の漉き方のように、漉き舟に靭皮など原料繊維を水に分散させて、簾桁で漉き上げて、薄い紙のシートに仕上げていく方法である。漉き上げた湿紙は漉き簾から紙床に重ねていき、乾燥工程に移れることから生産効率がよく、世界各地の紙漉き場ではこの方法が主流となっている。
 和紙研究書などで区分されてきた「溜め漉き」「流し漉き」の技法は共に「抄紙法」に分類される。また、ネリを用いた流し漉きは日本独特のものと寿岳文章氏らにより正倉院文書の実地調査で得た知見から言われてきたが、実際にはアジア各地の古来からの漉き場において、ネリ(紙薬)を用いる手漉き法が実見されている。久米康生著『和紙の源流』(2004年)にはアジア各地の具体的な事例が紹介されており、学ぶことが多い。

 今のところ詳細な世界各地の古来からの製紙技法の調査観察報告が少なく流動的ではあるが、「拍浪技術」や最初に流し漉き様に汲み流し、其の後捨て水を行わないで静止させ溜め漉き様に行う「流し・溜め漉き法」も見られ、様々なバリエーションがありそうであり、今後の調査研究が待たれる。日本の文書料紙研究も日本の枠内だけでなく南のペーパー・ロードの紙の特徴や技術変遷も視野に入れ検証していくことが大切だと思っている。

 なお、アジア各地の古来からの製紙技法については、昔の技法がすでに途絶えていたり、日本などの技術支援によって技法が大きく変質してしまっている事情もあり、注意深くルーツをたどって総合的に調査研究をしていくことが求められる。
 今の段階では、原初的な製紙技法と考えられる澆紙法から抄紙法に移行発展したのかどうかは不明で、別々に生まれ発展してきた可能性も考えられている。
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by PHILIA-kyoto | 2007-09-03 00:21 | アジアの紙の道