カテゴリ:スラウェシ探訪記(速報版)( 10 )

 

スラウェシ探訪記(速報版) ⑩

オーストロネシアン古代人との対話Dialog

 速報の最終回として、この調査で何が重要なことであったか? を書いておきたい。それは、学術的な新情報、新発見という成果以上に、今から3500年もの昔に、この地に到達し、高いレベルの文化を築き、遺物を残していった古代人への感動があり、古代人と語り合っていきたい、という気持ちが強く湧いたことであった。エジプトなどの発掘現場でもそうであろうが、古代の遺跡などには何かスピリチュアル(霊的)な雰囲気が漂っている。

 目につくモノだけでなく、目に見え難い遺物やメッセージを拾い集めていくこと。この忘れやすい作業をマメに行っていくことが、地球に破滅の影が見え始めた現代において、重要な事でなかろうか。

 数千年前に生きた古代人が、現代人より秀でている点は、「自然」を深く理解し、f0148999_13194513.jpg向き合っていたことだ。彼らの暮らしには、太陽の輝く昼の世界、夜の星のまたたく世界にゆったりと生きていく時間の流れがあったことだ。
 特に、地球の半分以上を占める「海」に人類で始めて集団として漕ぎ出していったオーストロネシア語族。彼らは、海に漕ぎ出した技術と同様に、生活文化の中に創造的なものを多々残した可能性が高い。

 過去に戻ることは出来ないし、過去の厳しい暮らしにずっと耐えられる現代人は稀であろう。しかし、古代人から学ぶことは出来るだろうし、現代人が危機に直面すればするほど、学ぶことは多くなることだろう。問題は、古代人に学ぶ仕組みや、メッセージを受けとる仲介が必要になる。

 何やら抽象的なことになってしまったが、「体験」は最も有効な学びの場だと考える。
不便さの残るスラウェシでも、インドでもよかろう。なるべく歩く、あるいはリキシャに乗る、など原初的な体験は、飛行機や新幹線などでは見えないものをいっぱい見せてくれ、感じさせてくれる。
 電灯のない、真っ暗な星空をゆっくりと見上げていると、無数の星の中からまたたく星が語りかけてくる。 
 日本なら捨ててしまうような、小さなジャガイモしかない暮らしを共有したら「生きる食べ物」の意味を学び、考えることが出来るだろう。

 老若男女を問わず、古代人と対話の出来る「体験」をしてほしい。

 きっとその先に、危機に直面する地球に、隣人に、どうしたらやさしくなれるか、そのヒントが隠されている気がする。

 スラウェシや各地でのオーストロネシア語族の調査探訪は、これからも発展し続いていくだろう。
 その成果が、専門家の学術的あるいは個人的満足にとどまらず、地球の危機を克服していく、力強いムーブメントに少しでも寄与していくことを願いたい。

  <画像はスラウェシ南部Leang Leang洞窟壁画の一部分。>
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by PHILIA-kyoto | 2008-09-11 12:51 | スラウェシ探訪記(速報版)  

スラウェシ探訪記(速報版) ⑨

古代からの知恵と響き

 今回の調査で、現地に入るのがすでにかなり手遅れになっていたことを痛感させられたが、それでも素晴らしい古代の知恵、美意識、音の響きを多々体得・体感するチャンスがあった。

 スラウェシの樹皮布製作の起源が新石器時代のオーストロネシア語族に遡る、という仮説を参加隊員は強く確信した。

1.樹皮を剥ぐ
 ヌヌNunu(クワ科イチジク属)から樹皮布を作る場合に、ヌヌの大木の外皮を縦サイズ1mほどの巾でグルリと剥がしてしまう。日本の林業での経験だと、樹木の外皮(樹皮)の周囲をグルリと剥がしてしまうと枯れてしまい、木を切り出す前に行ったりする。木を枯らすために、樹皮をグルリと円周状に剥がす事を行っている。 
 ところがここスラウェシでは、ヌヌの木から樹皮を周囲グルリと剥がしてしまっても、木は枯れない、再生してくる、というのだ。彼らは、古代から「木を枯らさないで」その森の恵みをもらってきた、という。 確かに、周囲のヌヌの木を観察すると、過去に1mほどの巾で樹皮をスッポリと剥がした跡が随所に見られる。

 村で会った漢方医Sandoらも、木々を大切にして、産物を得ていた。常に再生可能にして、採り尽くさないで仕事をしてきた。
 しかし、密猟者や外国に木を売る業者は木々を皆伐し、採り尽くして、再生不可能にしてしまう、と悲しむ。

 「再生可能な社会」とは、人為的に破壊した上に新規に人工的に作り出す世界ではなく、古代からの「再生可能な知恵・基盤」を引き継いでいくことではないだろううか?
 今、古代からの知恵や多様性が、急速に奪われ破壊され、忘れられていく怖さを思う。

2.古代からの響き
 楽器ではなく、日常的な樹皮布製作用の、通常6-8本セットの石製ビータStone Beaterに、それぞれの重さや形体に工夫が凝らされ、叩くときにビータ毎に発生する「音・響きが異なる」という発見があった。
 そして、樹皮を叩いて製作する作業の工程毎にテンポが異なり、リズムも異なる。
 まさに、作業そのものが地域で「音楽」を奏でている。
 これは実際に体験して初めて感じられる発見だった。活字や画像ではイメージできなかった。

 新石器時代の遺跡で、スラウェシで現在使っているような「セット」のStone Beaterは見つかっていないので、この音楽的発見は出来ていない。
 新石器時代の古代人に、このような樹皮布を作る時に石器が奏でる音を愉しむ「音楽的余裕はなかった??」と思われるかもしれない。 しかし、今回の調査隊員らは、新石器時代人の樹皮布に透かし模様water-markを入れる発想が実在したことなどから、Stone beaterに発生する音・響きの異なる音楽的要素を取り入れていた公算は高い、と推測している。

 まだ間に合ううちに、古代人の知恵や響きを見つける冒険的な調査の旅を続けておきたい。
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by PHILIA-kyoto | 2008-08-30 11:36 | スラウェシ探訪記(速報版)  

スラウェシ探訪記(速報版) ⑧

古代を語る樹皮布(Bark Cloth)

 世界で、インドネシアの中部スラウェシのみが、古代・新石器時代から現代に至る2000-3500年もの間、歴史を紡いで樹皮布の伝統を残した唯一の地域であろう。書くと簡単だが、歴史の上では驚異的な事実だ。 
 
  今回の調査で、インドネシア人民族植物部門担当隊員らは、多くの貴重な地域情報を採取した。
  
  樹皮布に付随してオーストロネシアン文化に共通する、f0148999_1356118.jpgイネ科のジュズダマ(Job's tears)は台湾同様にスラウェシでも自生していた。樹皮布の正装に数珠玉の首飾り(カリデ)をつける。あるいは、Gintuでは来客を迎える時に数珠玉の首飾りを首にかけてあげる、など使う用途は多々あったようである。<写真のカジノキを素材とした帽子Sigaの羽飾りにも、かわいい数珠玉が使われていた。>

  樹皮布自体も、Paluの近郊ではKutikaという占いに使う「暦」の素材はカジノキの樹皮布であったし、Mokesoという新石器時代から行われていた歯切りの儀式では樹皮布を被らないと血が止まらない、と信じられ使われてきた。シャーマンのBalia儀式用の服や帽子Sigaはカジノキで作った樹皮布とされてきた。
  死者を包む布として、カジノキの樹皮布はポペ・ブンク・トマテの儀式に多くの調査地で使われてきたことを聞いた。棺おけの中にカジノキの樹皮布を敷いて死体を包むと腐らない、との説明もあった。
  Gintuでは白いカジノキの樹皮布は喜びの際にのみ用い、葬式に使うことはない、という事例もあった。
  樹皮布の各地での調査・インタヴューだけで、膨大な時間が必要だし、大事で面白い項目だと感じた。

  だが、この世界で唯一、2000年から3500年もの歴史を刻んできた中部スラウェシの樹皮布生産も、生産者の高齢化、使う文化・機会の減少などから「風前の灯」のような危機的状況にある。
 簡単に、わずかのお金で、数世代生産に使ってきたStone Beatersを外国人に売ってしまう例も後を絶たない。

  今回現地に入った研究者達も、何か具体的な方策を講じる必要を切実に感じ始めていた。
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by PHILIA-kyoto | 2008-08-21 14:11 | スラウェシ探訪記(速報版)  

スラウェシ探訪記(速報版) ⑦

樹皮布原料カジノキ

  オーストロネシア語族の移動と共に、世界各地に伝播したと考えられる樹皮布(紙)製作用の原料植物カジノキ(Broussonetia Papyrifera vent.)
  古代からの重要な植物であるが、伝播時期、ルートなどが不明の謎の多い植物だ。f0148999_13235852.jpg
  インドネシアのジャワ、スマトラ、マドゥーラ島などで今では自生が確認できなくなっているカジノキであるが、ここスラウェシ島中部においては、広い範囲の複数個所で自生が確認された。村民の情報では、かなりLore Lindu国立公園内に自生しているようで、村民達はそこから株を持ち帰り、庭先に植えたと思われる。調査隊は、国立公園の内部まで踏み込む時間がなかったことから、今回は村民の庭先に繁殖したカジノキを調べるにとどまった。
  今回の各調査地で共通したことは、カジノキは「白い」という特徴から、Sigaという帽子や様々な特別の儀式・儀礼に用いられること。直径1センチ程度の細い木から皮を剥ぐことなどである。今後の詳細な調査が求められる。
  
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  カジノキの地域名称がAmbo、Ivo、Bea など複数採取されたが、台湾やポリネシア地域などとの言語的関係については、今後新たな専門的な調査が必要である。
  また、今回の調査では、いずれの地域からもカジノキの「花」「実」の報告は、持参した写真を見せても確認できなかった。

  ただ、Besoa Valleyの巨石遺跡の出口に生えていたMaloという木が、樹皮布製作に用いられるとの住民の話であったが、その若木に丁度、カジノキの雄花そっくりの房状の花が咲いているのを観察できた。このカジノキの花や葉と形状が似ているMaloについて、もっと情報が集まることを期待したい。
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by PHILIA-kyoto | 2008-08-21 13:39 | スラウェシ探訪記(速報版)  

スラウェシ探訪記(速報版) ⑥

Neolithic、Megalithic遺跡の溢れるスラウェシ

  インドネシア人考古学者によると、オーストロネシア語族に関わる新石器遺跡あるいは巨石遺跡が最も豊富なのはスラウェシ島だ、とのこと。 
 しかし、日本なら長い行列の出来るような素晴らしい遺跡でさえも、整備がなされていなかったり、一切の発掘作業すら行われていない所がゴロゴロしている。スラウェシの考古遺跡の発掘事業は、政府・州の財源不足が理由でほとんど手付かずという現状であった。惜しまれる。
 
  まず、巨石遺跡の豊富なLore Lindu国立公園だが、森林や河と共に美しい谷間(Valley)の風景も満喫できる。北から国立公園の東側を南下すると車窓に広がるPalopo Valley、そしてNapu Valley、Besoa Valleyが楽しめる。f0148999_13142976.jpg
  特に、ゆっくりと調査を行ったBesoa Valleyののんびりとした田園風景。そこで朝から晩まで田んぼの小屋で鳥を追い払う仕事をしている子供達。様々な鳥を追い払う小道具が用意されている。<この写真は、子供が稲に群がる鳥の場所に、砂糖キビの茎のような「玉」を竹の先に刺して投擲する道具ドア。簡単そうに見えるが、鳥のいる場所に玉を飛ばすには、かなりの熟練が必要だ。>
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  水田や遠くの山々を展望できる、ここ、巨石遺跡のひとつEntoberaの小高い丘には、巨石時代の石切り場、加工作業場が数キロにわたって点在している。
  埋葬用のカランバ、立像、石臼などが重点的にこの作業場で製作された様子が見て取れる。この小高い丘から、修羅のような道具で、大きく重たい石造物を目的地まで運搬したそうである。
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by PHILIA-kyoto | 2008-08-21 13:05 | スラウェシ探訪記(速報版)  

スラウェシ探訪記(速報版) ⑤

遅すぎた発見

  クロイト(A.C.Kruyt)の残した手がかりを用いて、新たにオーストロネシア語族の移動時代、新石器時代にまで遡って、樹皮布に「透かし模様Water-mark」を加工する技術の、過去から現在に至る「線」をスラウェシで発見できた成果は大きい。

 しかし、無念さも大きい。 その理由は最後に書く。
   
 8月2日発見日の当初予定は、全員スラウェシで最も大きな4.5mの巨石立像の見られるPalindoに向かうものであった。その地に向かうためには竹の筏での渡河が必要であったが、数日来の大雨で竹筏が壊れ、徒歩で胸まで水に浸かって河を渡る方法しかなかった。協議の結果、考古担当の男性3人は、歩いてPalindoに向かうこととなり、日本人と女性隊員は渡河を断念しこの地域でのカジノキの生息状況と樹皮布製作者の調査を行うことに変更した。だが、宿舎のあるTentenaに戻るためには、道路が悪く非常に危険なためドライバーと交渉し、11:30amまでに当地を出発し帰路につかなければならないこととなった。考古部門の隊員も、カジノキ調査の隊員も、使える時間は限られていた。

  庭先のカジノキの有無を調査しながら一軒の家を訪問。そして、カジノキの写真を見せて有無を確認したところ、身振りも交え、庭先で待っていろ!遠くの場所からカジノキを取ってくる、と説明しているようでった。庭先のベンチに腰掛けさせられ、家の主らしき人は腰に山刀をぶらさげて、山の方に走っていった。

  直感的に何かが走り、ベンチに腰掛けていたが、彼を追って山に走っていた。彼を見失うまいと必死で追いかけて走った。しかし、彼の身のこなしはすばやく、見失っていた。 
 必死に行方を追っていると山の畑でカジノキを切っている彼が居るではないか。ここにも若いカジノキが数本植えられていた。彼は、いろいろ説明してくれるが、よく説明が分らない。彼は実物で説明を試みようとしたらしく、ひとつの建物に連れて行き、布に包んだ数本のビータを広げて見せ始めた。f0148999_12273282.jpg

 アッ!! ビータの表面に模様がある!! 一本の石製ビータに、まぎれも無く捜し求めていた特殊な模様が刻まれていた。 残念ながら詳しいことを知る老婆は遠い山仕事に出ていて、夕方まで戻らない、とのこと。すでに我々の車の出発時間も迫っていた。残念ながら、これ以上の情報収集は出来なかった。 
  午前11時半。考古学担当の面々も興奮して、渡河の様子や、4.5mの巨石立像の美しさ、素晴らしさを話していた。 
  Tentenaに戻る帰路、後ろ髪を引かれる思いであったが、撮影機材のバッテリーもゼロになり電気の通っていないこの地域では充電できず、また明日からの予定もびっしり詰まっているため、戻らざるを得なかった。

  Hotelに戻り、後ろ髪を引かれる思いを隊員たちに話したが、全員の協議で、危険で苦痛のひどい山道を再び戻ることに全員反対。しかし、彼らは何かを感じたのだろう。絶対にNo!って言っていたが、「おまえひとりで苦痛に耐えて、無事帰ってこれる気力があるなら、ガイドを付けて行くことを了承しよう」「Torajaで無事に再会しよう」と許してくれた。

  翌朝、生憎の小雨。前夜予約していた車は、危険だと言ってキャンセル。日曜礼拝の終わる10時まで待って、再度ジープを探すために、ガイド達は町に出て行った。雨がこのまま続くとすぐにガケ崩れが発生し、数日足止めとなってしまう。Trajaに先行したメンバーとも約束の日に合流できなくなる。危険の回避と情勢判断は、ひとりで行わなければならない。
  ガイドが一台のジープを見つけてきた。気圧計も低下していないことと、ドライバーが優秀だというガイドの説明で、孤独の出発。雨はまだ降り続いていた。

  幸運にも、峠をいくつか越えた頃から、空は快晴に。車はスピードを上げて走るが、ガケ崩れの箇所も多く、道はぬかるみ、木を渡した仮橋など危険な道路であることには変わらない。
  2時半に村に到着。ドライバーは遅くても3時にはここを出ないと危険だという。あと30分しかないではないか?? 天気を見て交渉し、4時が限界だが待とう。それを過ぎたら、この村に泊まらないと危険だ、との説明に合意。 
  急いで調査を進めなければならないが、調査の対象は老婆なので、「ゆったり」調査を開始。ひとりでビデオを撮影し、写真を撮り、ガイドに通訳してもらってインタヴュー。これは大変なことになった。

  残念ながら、多くの重要であった情報が忘れられ、継承されないで消えてしまっている印象だ。今回の多くの調査地で樹皮布製作者や長老を訪問したが、誰も「特殊な模様を加工する石製ビータIke Torahi」のことを知っている人には出会えなかった。

  今、目の前でインタヴューをしている老婆も、本来あったであろう貴重な情報を継承しておらず、思いつきのような答えしか返ってこなかった。ビータの文様はウナギの下半部だという。もう一本の側面の刻み模様は、他の人のビータと間違わないためだ、との説明。

  あと10年早くに訪れていたら、もっと正確で重要な情報に出会えたかもしれない。きっと祖母の世代までは継承された情報があったかもしれない。
 そんな無念さを感じながら、再度この地に戻ってこれた満足感を抱えて、夕日の迫りくる村を大急ぎで後にした。 チャレンジは続く。
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by PHILIA-kyoto | 2008-08-21 12:19 | スラウェシ探訪記(速報版)  

スラウェシ探訪記(速報版) ④

幻の樹皮布用ビータIke Torahi

  今回の調査の発端として、A.C.Kruytが1901年に学術誌に紹介し、その後100年以上Hans Lenzのメソ・アメリカの考古遺跡から発掘された1件の報告事例を除き、世界のどの場所からも報告事例のない樹皮布用の「透かし模様water-mark加工用石製ビータStone beater」について、<現在も使用している実例>と<新石器時代遺跡出土博物館収蔵石器>の、いずれもからそれぞれ探索していた実物を今回のフィールド調査で発見出来た。
 まさに、大砂丘から小さな一粒の真珠を見つけるような偶然と幸運に助けられた成果となった。 
 
  すでに服飾研究家らが紹介しているように、樹皮布(Bark Cloth/Tapa)などに、描画彩色、プリントするという表現手法が古代より世界各地で一般的であった。おそらく、スラウェシで古代より樹皮布に透かし模様が使用されていた、という報告はこれまでなかったであろう。f0148999_11282664.jpg

  だが、オーストロネシア語族の人々は、なぜ今から3500-2000年以上も前にスラウェシで、樹皮布に「透かし模様water-mark」を加工するという、高度で目立たない技法を生み出し、用いたのだろうか?

  また、ジャワのチルボン樹皮紙文書に特殊な透かし模様の事例があるが、樹皮紙にもその技法がどの程度採用されたのだろうか?
 
  そして、その類似した発想と技法が数千キロ離れたハワイに、そしてマヤ.アステカに、どのようにして渡り、使われたのだろうか?    
  
  解明すべき謎と課題は尽きない。

  ここでは以下の3点の画像を使用した。
  1.Lore Lindu地域の一軒の家で見つかった透かし模様加工用石製ビータStone    
    beater (現地名:Ike Torahi)
  2.上記1.のStone beaterを用いて、透かし模様water-markを即席に加工した
    樹皮布(透過光で撮影) 
  3.スラウェシの新石器時代遺跡から見つかった1.に酷似した模様のある石器

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by PHILIA-kyoto | 2008-08-21 11:43 | スラウェシ探訪記(速報版)  

スラウェシ探訪記(速報版) ③

美しく、悲しい街Poso

  1700kmの車での調査の基点となった中部スラウェシのPaluから、調査地のLore Lindu国立公園の東南側Bada地域に行く時には、203kmほどでPosoの街を通過する。

  スラウェシ島で景色というか、雰囲気が首都ジャカルタのあるジャワ島などとかなり異なるのは、自然風土的なものもあるが、至る所に立派な「教会堂」が目に付くことだろう。

  ナマズ料理で有名な店Lele Rumbでナマズを食べ、走り出してすぐに1970年代に強制移住させられたヒンズー教徒の村々を両サイドに見ることができた。
  そして通過したPosoの街は、かって報道されたようにf0148999_1111194.jpg1998年から2002年にかけて外部の熱狂的集団の影響を受け、イスラム教徒とキリスト教徒の住民抗争が激化し、家の焼き討ち、虐殺が行われ、1000人以上が殺害されたとされる所だが真相は不明のようである。

  立派な教会やモスクが街のあちこちに建ち、海に面した風光明媚なこの街で、あのような残忍な光景が繰り広げられたことが異様で不思議であった。

  通過した通り沿いに今も焼け落ちた家々を20軒以上目にし、特に、隣同士にイスラム教徒とキリスト教徒の家が隣接していた場合に、偶々、どちらかの住民勢力が強かった地区では、どちらかの宗教の住民の家のみが焼き討ちに遭い、虐殺が行われることとなった。
  そのような、焼け落ちた家の横で今も暮らす人々の気持ちは、どのようなものだろうか?抗争前は、互いに仲のよい隣人同士であったものが、一瞬にして修羅場に変わり、焼く側、焼かれる側、殺す側、殺される側に引き裂かれる。

  焼け落ち放置された家の裏に広がる美しい南の真っ青な海を見ながら、現代に生きる人間の深部を、闇を見た思いがした。そして、これは決して他人事ではない。 
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by PHILIA-kyoto | 2008-08-21 11:15 | スラウェシ探訪記(速報版)  

スラウェシ探訪記(速報版) ②

オランダ人A.C.Kruyt

  今回の調査の「発端」は、今から100年以上前にスラウェシ地域に夫妻で長く住み、前人未到の民族学調査を行ったオランダ人宣教師A.C.Kruyt (10.Oct.1869-19.Jan.1949) の掲載原稿『Geklopte Boomschors Als Kleedingstof Op Midden-Celebes』(1901)の中の一枚の挿絵にあった。f0148999_10495954.jpg
  紙の専門家から見ると非常に関心を注がれる、樹皮布に透かし模様(water-mark)を加えるための石製ビータStone beaterのスケッチが2点載せられていた。その1点がここに載せたものだ。実は、このスケッチに注目したのは、マヤ・アステカの樹皮紙のことを書いたメキシコの本の中に、このKruytのスケッチに酷似したものを見ていた偶然の重ね合わせによる。

  この透かし模様を加える石製ビータは世界的に非常に珍しく、台湾やフィリッピンのビータ調査では見つかっていないし、後の研究者もこの100年間Kruytのスケッチを転載使用したのみである。

  この幻の石製ビータに類似するものが今もスラウェシに残っていないか、ひょっとすると今も使っている人が居ないか? こんなベーシックな動機が、いろんな分野の専門家の関心の輪を広げ「オーストロネシアン研究」の面白い「ひとつの窓」として、カジノキという原料植物と一緒に取り上げることとなった。

  A.C.Kruytが長く住んだPoso湖湖畔の町テンテナTentenaに建つ家は写真のように現在も残っている。現地での話ではKruytのお墓はPosoにあり、息子のJ.Kruytが毎年のように墓地を訪ねていた、と聞いたが1950年2月に出された『民族学研究』14巻第3号に、馬渕東一氏が「故クロイト博士とインドネシア民族学」という追悼文を書いており、f0148999_10535943.jpgそこではKruytは1932年に本国に戻り、ハーグで亡くなったとある。しかし、馬渕氏の文章では「1944年春、セレベス(現在のスラウェシ)に調査旅行中、略奪・移転によって散乱した彼(Kruyt)の蔵書を整理し破本を修理しながら、彼の論文を読んで少なからず啓発されたものであった」ともあり、完全にKruytはスラウェシから本国に引き上げていたのか不明である。第二次世界大戦の混乱の影響がここにもあったのかもしれない。

  調査の発端をA.C.Kruytへ敬意を払い紹介をしたが、いよいよ1700kmを走破した美しいスラウェシ島の中部から南部とオーストロネシア語族の足跡を紹介していこう。
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by PHILIA-kyoto | 2008-08-21 11:00 | スラウェシ探訪記(速報版)  

スラウェシ探訪記 ①

冒険の旅のはじまり
 
  この旅が、なぜ冒険か?というのは、首都ジャカルタでの中央官庁における中部スラウェシの旅情報が、非常に乏しく、不正確であった、ことへの警鐘を鳴らした表現である。
 インフラがかなり整備された2008年段階でも、現地に来て初めて、詳細で正確な情報が入手できる現実を、肝に銘じておきたいと思ったからである。

 2008年7月下旬。インドネシア・スラウェシ島の中部パルPaluからポソPoso、テンテナ Tentena、トラジャTraja経由で南部マカサルMakassarまで17日間かけて1700kmを車(ジープ含む)で地域調査を行いながら走破した。

  ロレ・リンド国立公園地域では、雨の少ない時期とされたが頻繁に襲う豪雨で道が崩れ、橋が流され、板を渡しただけの恐ろしい仮設橋を渡り、また粘土質の道路にぬかるんで車が動けなくなり人力で押して突破するなど、苦難の連続の道中であった。

 今回の試行調査は、主にオーストロネシア語族研究の優先課題とした「樹皮布Bark Clothと新石器Neolithic時代の石製ビータStone Beater」「原料植物カジノキ」についてなされた。 
  調査メンバーはIndonesian Institute of Sciences(LIPI)の民族植物学者、National Research and Development Center for Archaeologyの考古学者、Daluwang製作者、京都国際樹皮紙研究所所長、通訳、森林警察官、現地博物館スタッフの7名。企画・準備・経費負担は京都国際樹皮紙研究所が主に行った。(台湾国立史前文化博物館スタッフは書類手続きが間に合わず直前で参加出来なくなった。) 
 また、今回の調査ではインドネシア政府の植物標本採取許可等が連絡の行き違いで間に合わず、採取は一切行わなかった。

  メンバーはすぐに別々の仕事に戻ってしまい、再び集まって成果を共有するのは数ヶ月先になる。そのため、主観的で不十分な記述であるが、貴重で興奮に満ちた経験と成果の一端を速報の形で連載していく。この調査の一部区間についてはNHKの取材チームが同行取材したので、ラジオ、TVでの報道もなされる予定と聞く。

 <調査の帰路、峠で休憩する日本人プロジェクト・リーダと同行者>
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by PHILIA-kyoto | 2008-08-21 10:39 | スラウェシ探訪記(速報版)