カテゴリ:スラウェシ現地情報2010( 17 )

 

メキシコTemplo mayor遺跡で見た紋様

中部スラウェシとメキシコの紋様の酷似

  中部スラウェシの州都パルPalu。今回の現地調査で、ずっと頭に引っ掛かっていたのは要所要所で見つかる「紋様」のことだった。石器ビーターに刻まれた「紋様」、伝統衣服に描かれた「紋様」、建物に彫られた「紋様」 ……。
  ここのパル州立博物館のメイン展示ホール入口の壁面に描かれた大レリーフ。その最も目立つ場所に、メキシコ・シティのテンプロ・マヨール遺跡の北側から発掘された神殿門のレリーフ(写真右)と酷似した紋様(写真左)が刻まれていたのを見た瞬間には、神秘的な驚きで胸が高鳴った。単なる偶然の似たものかもしれないが、このパル博物館の大きなレリーフの下絵を描いたのは、初代博物館長だったが、すでに他界していた。彼は、それまでの長いスラウェシでの調査研究で得たものから重要と考えたものを博物館壁画の下絵に反映させた、と言われているが、今となっては「何が重要だった」のか不明となってしまったようだ。f0148999_19502062.jpgf0148999_19504640.jpg











  この花模様のような「紋様」は、2009年11月27日付のブロッグに掲載した石器ビーターの下右写真の右端の紋様とも似た形をしている。  どんな意味が秘められているのだろう? 
  何かスラウェシとメキシコには、つながりがあったのだろうか?

  中国南部―台湾-スラウェシ―ハワイ―メキシコ という一線上には、中国南部で7000年以上前に生まれた樹皮布/樹皮紙の歴史を探求する上で、何か深く調べるに値する痕跡が残っているような引き寄せるものがある。    
  オーストロネシア語族Austronesianに関わるものだろうか?

  国立台湾史前文化博物館Taiwan National Museum of Prehistoryの出版物『背児帯Baby Carriers』(2007.Fang Chun-Wei編)に所載されている、中国雲南省大理で撮影された背児帯の紋様(下画像)f0148999_11264022.jpgにも似ていて、引き寄せられる。ただし、大理の紋様は「古銭紋coin pattern」と解説されるが、パル博物館の紋様と見比べながら、どの部分を見てネーミングするかに左右される気がして、名称の精度について考えさせられた。

  ※2009年11月11日付の当ブロッグに書いた、スラウェシNapu渓谷で出会った老人達の多くの記憶に残る石器ビーターの透かし模様が、メキシコの遺跡から見つかった石器ビーターの透かし模様と同じであった、ということも気になる。
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by PHILIA-kyoto | 2010-10-20 11:43 | スラウェシ現地情報2010  

Bulili村の伝統樹皮布コスチューム復元

子供達の笑顔④

  「まだ間に合うプロジェクト」の実施を発想したのは、2008年の現地調査の折に通ったノモ村の学校で伝統ダンスを練習する子供たちの様子を見せてもらい、先生方から「樹皮服を着せて伝統ダンスを踊らせたい」という熱心な声が寄せられた時であった。急速に変貌して行く現地への危機感と恩返しの気持ちで、現地を知る研究者の知識とネットワークを使って、何か恩返しの真似ごとをしたい、と考えていた。明日では、もう手遅れになって出来なくなることも、いま始めれば「間に合う」こともありそうだ。

  一番目の実施は、ノモ村でなくブリリBulili村となった。

  課題は、年配の先生方にも記憶がないほど数十年も樹皮布コスチュームを製作したことがなく、マテリアルを誰が作るか、誰が縫製するか、誰が刺繍や紋様を描くか、誰が首飾りなどを作るか??村々に昔は存在した職能分担が喪失してしまったのだ。奇妙なことだが、村の人よりも、今は研究者の情報の方が奥深い場合がある。
  近隣で一番いい仕事をしてくれる熟練世代の候補者の名前を挙げて、プロジェクトを担う先生方と協議し、一歩ずつ事を進めていった。残念ながら、村に長期滞在できないことから、算出された総額を校長先生に託し、4ヶ月後の独立記念日を目標に完成を急ぐこととなった。

  それから、どうなったか……

  約束した8月17日の独立記念日には行けなかったが、長期休暇中であった8月26日(木)に学校を訪問。校長先生は、新調なった踊り子用12着、楽士用4着の仕上がった樹皮服を見せて下さった。(よく見ると、まだ4着分の装飾作業が済んでいなかったが。)f0148999_8444427.jpg

  28日の土曜日は、心配した天気も晴天となった。新調したカジノキの白い樹皮を叩き延して作った樹皮布コスチュームを着て子供達が伝統ダンスを踊って見せてくれる日だ。校庭に生えた草を牛が食むのどかな朝。校舎の周囲には、見物に集まった村民たちが大勢見えた。インドネシア国旗を先頭に、ゴングをもった男子生徒が続き、この地域に伝わるデロ・ダンスが始まった。忘れられていた記憶や技術が戻り、結集して今日の日を迎えたのだから、よくまとまって頑張った。f0148999_8461737.jpg

  踊る子供達の、愉しそうな表情。明るい。小一時間でダンスのお披露目は終了した。

  新調した樹皮服を着て踊った子供達に、「服の着心地は?」と聞くと、どの子も「着心地いい!」と言って、脱ごうとしない。とっても、晴れやかで、自慢げだ。まだ、間に合った。
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  他の村々の学校でも、伝統ダンス用に樹皮服を新調したい声はあるようだが、実現していくには、地域毎にコーディネートし、人を発掘し資金を確保していくことが必須となる。
  樹皮服を着て伝統ダンスを踊る未来を担う子供達が、ロレ地域の村々に広がってほしい、と夢見る。
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by PHILIA-kyoto | 2010-10-12 09:00 | スラウェシ現地情報2010  

バダ渓谷での樹皮布/樹皮紙現況

「生きた化石」の伝統技術を継承する新しい動き③

  希少な「生きた化石」とされる中部スラウェシの樹皮布/樹皮紙製作技術と伝統文化は、これまでの内外NGOなどの技術継承ワークショップや販売促進が功を奏せず、衰退の一途をたどっている。
  どこに功を奏さない問題があるのだろう?

  ロレ地域を廻って気づく事は、地場産業としての地位を失い、世代交代が進まなかったことから、現在の作り手は高齢化し、若い世代が製作に従事していないことだ。このことは同時に、原料となる樹木のカジノキ(Bea, Ivo)の維持を怠り、本数が急減してしまうことを招いた。50年前頃の樹皮布を手に取ると、均質で、仕上げが美しく、品質の良い、ほれぼれするような品と出会うことがある。今、当時のような高品質のものを製作できる熟練者と切磋琢磨する環境は失われたようだ。まあまあ満足できる84歳と75歳の老婦人の製品が、今後あと何枚生産できるのか心もとない。

  この難局をどのように克服できるのか? 天を仰ぎ、次の手を考える。

  f0148999_13133554.jpg伝統地場産業としての経済的魅力創出と同時に、高い昔の品質への回帰、向上を促す努力をしよう。良質な原料樹木を増やし、切磋琢磨して、良質な製品を作る意欲が育ってほしい。(画像作業風景は、娘に技術を伝えようとする老婦人。乾燥作業後、二人で樹皮布を引っ張って平らに延ばす。延した後、砧打ちを行い平滑に仕上げる。)f0148999_132644.jpgf0148999_132281.jpg









  後日紹介するBulili村での、樹皮布コスチューム復元のチャレンジと、樹皮服を着て伝統ダンスを踊る子供達の喜々とした表情は希望を感じさせる。
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by PHILIA-kyoto | 2010-10-11 13:16 | スラウェシ現地情報2010  

バダ渓谷への中継地テンテナTentena

ポソ湖に面した美しい町テンテナ②

  テンテナTentenaについては2008年8月21日の当Blogで、この地に100年ほど前に居を構えていたA.C.Kruyt(1869-1949)のこととあわせて紹介した。テンテナからペンドロに広がるポソ湖Lake Posoは今も地域の人々の交通、漁獲物などを支える。緑の丘を背景に湖畔に建つ教会などの美しい景色を見ているとスイスかノルウェイに居るかと錯覚する。f0148999_10595725.jpgテンテナにはIntim Danau Posoなどのホテルがあるが、新しく地元実業家が湖畔に見晴らし良く張りだしたCafe & Hotelを開設していた。名前はまだない。湖に飛び込むと透明度は高く、すぐそばに魚がたくさん見え、湖底にはシジミのような貝が多く生息していた。だが、湖の水質保全上は、この新しいホテルが本格稼働すると排水など環境問題が発生すると思われる。
  ポソ湖で目にする丸木舟や木造船は両舷にアウトリガーを装備しており、海洋民の伝統が残っているのだろう。

見事な滝Soluopa Waterfall

  バダ渓谷から下ってきてテンテナの町に入る手前。バリ人入植住宅などのあるところで本道から分岐し、ソルオパ滝への道がある。10分ほどで駐車場に。そこから400mほどの木立の中の遊歩道を歩くと滝に着く。これまでの「滝」のイメージとは異なった、天に広がり舞う花火のような自然の造形美だ!!
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テンテナにも複数の埋葬洞窟が

  テンテナTentena近辺には複数の埋葬洞窟burial cavesが現存していた。まだ調査は完全になされていないようだが、盗掘がなされてしまった洞窟もあるという。訪ねたのは、本道から登り坂を30分ほど行った崖に開いた洞窟に作られた埋葬洞窟だった。この場所では社会階級によって洞窟が分けられているとのことで、下方の洞窟は低い階級の人々、上方の洞窟は上位階級の身分の人々が1949年だかの政府の使用禁止令までは使っていたという。ヒヤッとした冷気が感じられる洞窟を覗くと人骨がおびただしく埋葬されていた。トラジャよりも早い段階の埋葬洞窟とされるが、調査が進んでいないことが惜しまれた。f0148999_114944.jpg
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by PHILIA-kyoto | 2010-10-11 11:44 | スラウェシ現地情報2010  

バダ渓谷への小さな旅

バダBadaへの旅の記録①

  2008年8月時点では、外部から閉ざされ「秘境」の趣の強かったロレリンドゥ国立公園Lore Lindu National Park南縁エリアに位置するバダ渓谷地域であったが、この数ヶ月で急速に開発が進んでいるように思える。f0148999_9311540.jpg
  隔絶感を感じさせていた大河を渡る「イカダの渡し」は消えて立派な鉄橋(画像右)が完成し、村々の丸木橋はセメント製に次々と掛け替えられている。自動車道路網がヒタヒタと押し寄せているようだ。これは、これから進行する大きな変化の前哨だと思う。

  2010年8月某日に中部スラウェシの州都パルPaluを朝9時にトヨタ・ラッシュで出発。折りしもイスラム教の断食期間中で、同行者達は日の出から日没までの時間帯、旅の道中飲食物や水、タバコなど一切口にすることはできない。ポソの街を13時ころ通過し、標高500 mほどのテンテナに16時前に到着。ここで、夕食用の紙に包んだ「焼き飯セット」とヤシの実、バナナなどを購入。ドライバーには過酷な行程だが、そのまま一気にバダ渓谷の村まで走行することに。漆黒の深山の霧空に丸い月と輝く星が時々見えた。幻想的だ。20時過ぎボンバBombaの簡易宿泊所に無事到着。距離にして370キロほど。

  バダ渓谷地域には9つの村があったと思うが、樹皮布/樹皮紙を主に製作しているのはGintu, Bewaの2つの村の数軒だけとなった。満足できる製品を作れると評価したのは84歳と75歳の2人の婦人のみで、他の方々のは品質が粗悪で満足できるものではなかった。地場産業としての地位を失って久しいことから、若年層の参入がなく、継続的な世代交代がなされなくなっている問題がある。

  バダ渓谷の周辺には、ナプNapu渓谷、ベソアBesoa渓谷があるが、もっとも辺境の趣を残しているのは電気、電話のサービスを受けていないバダBada渓谷のみとなった。山々に囲まれた渓谷にゆったりと広がる水田や放牧地。日本人にはホッとする景色だ。
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  バダ渓谷Gintuからナプ渓谷のウワサWuasaまでは、車で7時間ほど。尾根を走る部分が多いが、突然の大雨に見舞われ道路はぬかるみ走行は苦難を極めた。泥沼にはまった車を押す時に、靴は泥に埋まって大変なことになった。運が悪ければ、崖下に車が転落しそうな危ない箇所も数箇所。

  バダ渓谷からベソア渓谷のDodaまでは同じく7時間ほどを要した。途中まではポソ経由ナプ渓谷へ行く道と同じだ。ベソア渓谷は、90年代に道路が開通し、樹皮布製作も時々頼まれて製作する程度になりほぼ途絶えた。
ナプ渓谷に入ったあたりで、中国が大規模なキャサバ農場を開墾中の現場を目撃した。新規開発分だけで500haくらいと言われており、ゆくゆくは数十倍に広げる計画らしい。

  このバダ、ナプ、ベソア渓谷には巨石megalithic遺跡が豊富に残っており、地元の遺跡管理者(州政府役人)の案内で見て回ることが可能だ。下画像は、5個の石器ビーターが出土したナプ渓谷Napu Valleyの小川の上方に位置する高台の遺跡Watunongko siteに残る「舟形カランバ(石棺kalamba)」。f0148999_9501398.jpg
  なお、規則上は、調査にはRISTEKという政府部署へ調査ビザの発給を申請する、またロレリンドゥ国立公園内への立ち入りにはパルの森林局へ入域を届ける、などなどの手続きが必要となるので、事前に旅行業者などに問い合わせることが望ましい。

※②以降で、中部スラウェシの旅の様子を連載する。
<2010年10月11日情報追加。>
 
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by PHILIA-kyoto | 2010-10-07 10:39 | スラウェシ現地情報2010  

メガリティック石に刻まれた文様

Bulili村にて

  中部スラウェシLore地域Bada渓谷にあるブリリ村は、昔話に「バダ地域に人が住む初めの時に円を描いて望ましい場所を歩いて探し、円の中心に位置した場所が選ばれたことから、円の中心を意味したブリリという名が村につけられた」と語り伝えられる。

  このブリリ村の子供達が伝統ダンスを踊る際に着る樹皮布のコスチュームを製作するお手伝いと経済的支援をしたが、そのことについては追って述べたい。

  f0148999_7181655.jpgここでは、ブリリ村に残された3000年前頃と推定されるメガリティック石に刻まれていた、珍しい文様を紹介しておこう。この「花」のようなモティーフは、このBlog2010年10月20日の記事などで紹介したスラウェシの石器ビーターやメキシコのテンプロ・マヨールTemplo Mayor神殿の入口、雲南・大理のBaby carrierに残された模様に一脈通じるものがあるのではないか?いったい、何を示す模様なのか? (メガリティック石には、人物や動物の顔が刻まれたり、あるいは天体を占ったとされるピットマーク石は数あるが、花や太陽のような模様が刻まれた例は現在のところ非常に珍しい。)

なお、このBulili村に残る巨石に刻まれた花形とハート形の模様について、スウェーデン人考古学者Walter Kaudernが1917-20年に行った中部スラウェシ現地調査の報告である『Megalithic Finds in Central Celebes』(1938)のp.104-107に写真と論述がある。

※2010.10.20 一部情報追加。
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by PHILIA-kyoto | 2010-09-07 07:23 | スラウェシ現地情報2010  

Central Sulawesi・Lore地域

変貌が始まった巨石遺跡地帯の暮らし

  2008年8月に入ったインドネシア、中部スラウェシLore地域は秘境の感があった。約170キロ南のトラジャ地域までは観光客が簡単にアクセスできるが、ロレ地域は閉ざされた地域であった。

  しかし、この2年で急速な変貌が進んできた。この8月の訪問では、相変わらず異常気象の大雨が降ると土砂崩れが各所で発生する状況は同じだが、道路はコンクリートやアスファルトになっていき、主要道路沿いの復旧ペースは格段に強化されていた。これまで秘境の関門だった「イカダの渡し」にはコンクリート製の架橋がかかりその座を譲っていた。その一方で、昔から使われてきた「歩く道=バイク道」の荒廃が顕在化してきたようだ。愉しみだったGinpu-Bada間のバイク道は通行不能になったままで、復旧の目処はたっていなかった。
  バダの村々の各所に、重い自動車が通行できる橋が次々と建設され、アスファルト舗装を行う重機が忙しく作業を行っていた。

  閉ざされてきた秘境の扉が、いま壊され、大きく外に向けて開かれようとしている。
美しい大地の広がり、優しい人々の絆が、どのように継承されていくのか。すばらしい巨石遺産や3500年以上続いてきた樹皮紙/樹皮布文化が、息づいた形で守られていくことを祈念する。

Napu渓谷に透かし模様の刻まれた石器ビーターを追って

  おそらく、ナプ渓谷地域には、樹皮布/樹皮紙製作に「透かし模様を入れる石器ビーター」が使われる不思議な文化があったと推察される。(同じような石器ビーターは、なぜかメキシコの遺跡からも見つかっている。)しかし、今では正確な情報は失われ、かすかな残照しか見られない。Lore地域には、古くからTuaha Mahile, Kabilaha, Tau Maroa, Hawi という階級区分が存在し、今も生きている。儀礼で頭に巻くシガSigaの色や模様が階級区分を示すように、「透かし模様」も、この階級区分と関係したのだろうか?

  今回の旅でも、有力な痕跡とは出会えなかった。「お百度参り」という言葉があるが、もっともっと困難な旅を続けなければならないのかもしれない。
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by PHILIA-kyoto | 2010-09-05 13:55 | スラウェシ現地情報2010  

中部スラウェシの子供達と

樹皮布文化Bark Cloth Cultureを次世代に!!

  2010年8月のインドネシア独立記念行事に、中部スラウェシBulili村の子供達の伝統ダンス・チーム全員が、地域の樹皮布製作者の奮起で新調される樹皮布コスチュームを着用できるか、期待している。
  ブリリ村の学校校長、ダンスを教える先生達、長年作ったことのなかったフルセットの子供用樹皮布コスチュームを製作するおばさん達など、の連携がうまく実らないと実現しない、多難の夢だが……。
  独立記念行事の日を、半分期待し、半分心配し、結果を待とう。 まあ、ダメでも来年に向けてやればいい。f0148999_10522991.jpg
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  このブリリ村の学校図書室の棚には、普段使う教科書と数冊の地図、副読本が貧相に並んでいるだけだった。だれの責任でもない。中央政府も、地方政府も、山村の子供達に「子供の本を読ませよう、届けよう」という施策を実行しないだけのことだ。 ならば、バイクタクシーで運べるだけ、少しずつ子供の本を、山村の学校に届けよう。 運よく、インドネシア語の全国の民話の本に「ブリリ村の昔話」が所載されていた。 見つけた先生方や子供達の、驚いた顔、顔、顔…。 少しずつでも、また届けに行こう。 この山村の子供達が、子供時代に子供の本を読む機会が生まれ、何か心の糧になることを期待しよう。

  中部スラウェシの今は乾季だ。 奥まったBada,Besoa,Napu Valleyの地域に埋もれている新石器時代からの痕跡や情報が新たに見つかることを期待したい。
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by PHILIA-kyoto | 2010-08-11 11:01 | スラウェシ現地情報2010  

中部スラウェシへの旅 3

不便な観光、便利な観光

  中部スラウェシの地理的、自然的、歴史的な魅力は大きい。
しかし、地理的な辺境さから観光客の来訪は極端に少ない。それ故に残され、守られてきたものも多い。

  かっては道路も満足になく、電気も通じていない地域は、結構世界の各地にあったが、その数は急速に減ってきた(その反面、大都市などに新たな辺境の地が生み出されている、という声もあるが...)。

  中部スラウェシは、新たな転機を迎えているのかもしれない。
f0148999_21472124.jpgこのところ、中部スラウェシの「樹皮布・樹皮紙」にインドネシア国内・国外で注目が集まり、小さな風穴が開き始めてきている。

  便利な観光は、旅慣れない人々や体力的に無理できない人々に歓迎される。どこもここも、便利な観光に席巻されるのだろうか? 
  不便な観光も、様々な非日常の旅を必要とする若者やスピリチュアルな体験を期待する人々には切望されるものかもしれない。 
  便利な観光から逆行して不便な観光には、普通では戻れない事なので、失う前に考えなければならないことなのだろう。

  不便さゆえの「感謝の気持ち」「人々の優しさ」。f0148999_2148538.jpg
村に入るたびに、心を癒される子供たちの笑顔としぐさ。 

  電気のない漆黒の闇にまたたく星空。 

  古代から、民話や創造性を生み出してきた原点が感じられる。

  この残された辺境の地の素晴らしさと、時にはそれ故に見られる貧しい暮らしを、ひっそりと味わい、愉しみたい方々は、乏しい旅行情報を基に、拠点の街パルからの旅をはじめることができるだろう。

  多くの人と人、自然との出会いを重ね、いくつもの未来への種を蒔いてきた中部スラウェシの地をそろそろ離れ、カジノキBroussonetia papyriferaを追って台東に向かおう。  
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by PHILIA-kyoto | 2010-05-03 22:58 | スラウェシ現地情報2010  

中部スラウェシへの旅 2

豊かな自然に溢れ巨石遺跡のあるBada地域

  バダBada地域は、パルPaluからテンテナTentena経由で走行370キロほどの位置にある。パルからテンテナ経由チャーター・カーか隔日運転の乗り合いミニ・バスで行く方法がある。走行時間は休憩含め約10時間となる。なお、12月から4月頃の雨量の多い季節にはテンテナ経由の道路が通行止めとなる時がある。それ以外には、ギンプー経由のけもの道を、下の画像のように荷物を満載したバイク・タクシーで行くスリリングな方法もある。所要時間は8時間ほどだが一般向きではない。f0148999_21363665.jpg


  有名な高さ4mもあるSepeの巨石像、埋葬に使ったとされるカランバなど各所に巨石時代の遺物を見ることができる。また、新石器時代に上陸してきたオーストロネシア語族に起源を有し、今も「生きた化石」のように3500年ほど前と同様の道具で樹皮布(紙)を製作している人々の姿を見ることも出来る。最後の仕上げ段階で木製の砧(きぬた)を打つ姿は、日本の延喜式の時代を想起させる。f0148999_22104762.jpg

  バダ地域の平均的な高度は700m前後で、古代の人々が好む自然環境が豊かにあったのだろう。

  バダへはパルから案内ガイドを雇って同行するか、Bada地域のGintu村に住む英語ガイドAgus Tomaha氏に依頼するのが、安全で快適さを満たす必須要件だろう。Bada地域での宿泊所LosmenはBomba村にある。食事は用意してくれるが、特注しなければ宿泊客全員同じメニューの食事となる。温水シャワーはない。Tuareの宿泊所より評判はよい。電気の通じていない地域が多いが、宿泊所などでは夜間ジェネレーター発電で電気が供給されている。Bada地域では、限定された場所でのみSimpati社の携帯電話が通じるようだが、基本的には全域で携帯電話は使えず、電気の通じていない場所が依然多い。なお、高額の料金が課金されるが、衛星公衆電話がGintuなど域内数箇所に配置されているようなので、緊急時には衛星公衆電話を使うこととなる。
  日程に余裕がある時は、ポソ湖湖畔のテンテナのホテルIntim Danau Posoで宿泊すると、美しい山々を望む湖畔の朝の景色を満喫できる。湖畔のホテルでは温水シャワーが使える。下の画像は、バダへ向かう高台から見えるポソ湖だ。f0148999_2139734.jpg
  宣教師であり、多くの研究足跡を残したオランダ人クロイトA.C.Kruytの暮らしていた家が湖畔に今も残されている。

  かっては恐怖が吹き荒れたポソ地域であるが、2年前には目に付いた焼き討ちされた家も、今は撤去されるか、草に埋もれて見えなくなっていた。人々の努力もあり、平和が戻ってほしい。
  
  豊かな渓谷の美しさ、自然の恵み、歴史遺産に満ちた地域であることから、バンドンやジョグジャカルタなどに見られる「馬車での移動・観光」、「エコツアー」など、極力自然・環境破壊を抑えた観光開発が試みられてほしい。

数週間前に見つかったKololi村の考古遺跡

  f0148999_21394543.jpgBomba村の宿泊所からバイクで10分ほどの高台で、埋葬した骨の入った大きな陶器の壷が現時点では5個、住居の拡張工事の際に見つかった。まだ未発掘のエリアが多そうであるが、考古局の正式発掘日程が決まっていないため、応急の屋根を掛けて損傷を防いでいる。巨石時代、新石器時代などの遺跡が多い中部スラウェシであるが、発掘作業はほとんど進んでいない。

  もっと海外からの遺跡発掘調査団の派遣が期待される地域だ。
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by PHILIA-kyoto | 2010-04-10 16:40 | スラウェシ現地情報2010