マヤ絵文字の刻まれた石器ビータと対面
成田からカナダ経由のフライトで19時間程かかって、厚い雲かスモッグに包まれた高原都市メキシコ・シティに降り立った。
AD600-800年頃のマヤMaya古典期に使われていた、とされる世界で初めての報告例となるマヤ絵文字の刻まれた石器ビータを手に取って見るのが旅の目的だった。
2012年5月30日付のブロッグ記事で、中国南部で4000年前頃とされるユニークな模様の刻まれた石器ビータが出土した事を画像入りで紹介したことがある。
おそらく、封印された古代社会で樹皮紙/樹皮布に、お札の偽造防止用の透かし模様のような「光にかざさないと模様が見えない、透かし模様Water-markという発想と技術が、エジプトのパピルス全盛時期と同じ頃に、樹皮紙の痕跡が残る地域ですでに存在していた」可能性を後押しする物証がボツボツ気づかれ始めたのだろう。
これまでにインドネシア、中国などで見つかっているユニークな模様のある石器ビータの図柄は、いずれも幾何学的模様であった。
ところが、今回メキシコで出土した石器ビータ<画像参照>

は、マヤ絵文字であり、いつか石器の両面に刻まれた絵文字の意味が解読されていくと、当時の“透かしwater-mark”加工用に模様が刻まれた石器ビータの使用目的などが解明されていく糸口になるかもしれない。
透かし模様を加工できるビータの報告事例は、世界全体でもまだ少ない。ことに、マヤ・アステカ期の膨大な樹皮紙の本、文書は邪教の根源として、カトリック神父らの指示で徹底的に帝国一帯で集められ広場で燃やされた。樹皮紙を製作する道具や技術も邪教のものとして厳格に廃絶されたことから、今に残る物証は非常に限られてしまった。
とはいえ、徐々に世界各地の樹皮紙原料樹皮のDNA分析も広がる様相で、様々な観点から「樹皮紙の起源と伝播」、その使用実態についての調査研究成果が増えていくことを期待したい。
樹皮紙のメキシコ現地調査は命懸け
感動的だったマヤ絵文字の刻まれた石器ビータと出会った翌々日に、思わぬ災難に見舞われた。
首都メキシコ・シティから1時間ほどの高速道路上(ちょうどテオティワカン遺跡付近)で、乗っていた高速バスが武装3人組に襲われ、靴下まで脱がせて徹底的に金目のものを強奪していった。パソコン、バックアップ用HDD、携帯電話、カメラ、腕時計、財布、旅行ザックなどなど。ポケットに残っていた小さなSDメモリー・カードも3回目の身体検査で見つかり奪っていった。
高速バス乗車時に、金属探知機で一人ひとりの所持品とボディ・チェックをし、個々の顔写真を撮影していたにも関わらず…、であった。あちこちが形骸化し、ザルなのだろう。威嚇のため、3発ほどピストルを発射した時には恐怖が走った。ネズミ男のようにフードを被った人が見えると、恐怖がよみがえる。バスもしばらくは乗れなかった。
バス運転手によると、メキシコ各地でかなりの件数で武装強盗が出没しているとのこと。首都近郊や昼間も、危険なのは困ったものだ。 汚職や疲弊した困窮層が増えているのも、治安を悪化させる要因という。
多くのここ数年分の2度と撮影できないフィールド調査画像については、保存バックアップ用HDDが一緒に奪われるという失態をしてしまい、ショックであり悔やまれた。

強盗に襲われる前には、スペイン人征服者の目を逃れ、絶滅を免れた樹皮紙生産地サン・パブリトSan Pablito村を訪ねた。サン・パブリト村では、樹皮紙の基本製造技術は大きく変わってしまったが、部分的には数百年以上の歴史を引き継いでいるかもしれない。
Moraという白い樹皮の採取できる樹木も、数百年使われてきたかもしれない。そんなロマンのあるMoraの白い樹皮紙を使い、素晴らしい切り紙細工技術で仕上げた作品も、ザックに入っていて奪われてしまい惜しまれた。 <参照画像は2009年3月収集のAmate切紙細工>
命が助かったことなのだから、再起は可能かもしれないが…。