プラムポックス・ウイルス災害に襲われた、青梅・吉野梅郷

災害の当事者は、あきらめやすい

  更新頻度が落ちているが、昨年2011年1月9日付で「吉野梅林の木の古木達との別れ」と題し掲載した“青梅のプラム・ポックス被害”は、公的調査が進むにつれて深刻な状況が判明してきた。

  最近、いくつかのブロックにも投稿されている、青梅市和田の「明白院(めいばくいん)の”しだれ梅”(樹齢100年以上)」など親しまれてきた老木、成木1万本以上が青梅市内で2012年度末までに伐採されるのだ。
  正確な数字は公表されていないが、昨年の調査後に被害が急拡大しない前提で、新聞紙面や現地情報から推測すると、2012年度末には青梅市全域の約4本に1本の梅の木が感染により伐採されてしまう、とんでもない異常事態となりそうだ。

  特に、1敷地内の1割以上の梅の木がプラムポックス・ウイルスに感染している場合には、皆伐されてしまうため、地震、津波被災地のように、あちこちにすっぽりと空き地ができ、伐採後3年以内は梅を植えてはいけない規制のため、宅地化の勢いが加速されたりし、のどかな里山の自然、「日本一の梅の里」と言われた景観と集客力が一変し、失われてしまう懸念もある。

  写真(青梅市和田で3月27日撮影)は、美しかった梅林が皆伐され、根を小型シャベルカーなどで根こそぎ抜き、更地にされていく悲しい作業風景だ。このような作業が、地震災害被災地のガレキ撤去のように青梅市内の各地で増えていく。
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  この梅郷の地の梅は数百年前の木も多いが、戦後に「地場の特産品」を盛んにしたいと考えた地元農家の方々が和歌山県・南部などをモデルに真摯で地道な努力を重ね、今のような経済を潤わせる梅の里とした、と聞く。日本経済新聞の読者アンケートで、「日本一の梅林」と評価を受けるまでに希少性も高まった。その先人たち、農家の方々の努力と熱意を絶やさないように、“災い転じて福となす”勇気を青梅を愛する方々で発揮してもらいたい、と願う。新しい方策も必要となろう。

  今後、多発化していく傾向の大規模自然災害による甚大な被害、家畜や果樹類が大量に死滅していく(あるいは予防的に殺す、切られることを含め)猛威をふるうウイルスの大流行。脆弱化していく現代人が、波状で押し寄せてくる大災害を乗り越えていくには、かなりの犠牲を伴うのだろうか…。

  1万年ほど前の人類が、農耕の始まりのころ、例えば「栽培用の麦」を“約3000年”という驚異的な年月を忍耐強くかけて発見し、守り残し、増大させてきた驚くべき原動力は、いったい何だったのだろうか? 古代人は、時として現代人の驚くような桁違いの「パワー」を発揮していた。 

  時代は下り、新石器時代に未知なる大海原に漕ぎ出したオーストロネシア語族の、しぶとく数千年間の歳月を費やし、英知を結集して世界の海でカヌーで繰り広げた大航海においても、歴史の不思議さを教えられる。

  ガンバれるだろうか?、現代人 !!
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# by PHILIA-kyoto | 2012-03-29 23:51 | 身辺雑記  

台湾・台東にて

東日本大震災から9か月

  久し振りの投稿となった。
3月11日に発生した東日本大震災後の3月21日に現地に入り、ほぼ6か月間休みなく専門的な被災バイタル・レコードを対象とした支援活動を行った。その後、ASEANの第2回災害WSがインドネシア国立図書館のコーディネートで11月28-30日に開催され、講師で招かれスラウェシにも足を延ばした。
  そして現在、ほぼ1年振りとなったが、台湾の国立史前文化博物館の好意で台北、台東を訪問し、旧交を温めている。オーストロネシア研究がもっと加速されればと願う。

台東のカジノキ

  先月、インドネシア科学アカデミーLIPIの植物学のシニア・スタッフと、ボゴールの植物園でカジノキの話題を話し合ったが、インドネシアで知られる樹木カジノキと、台湾・日本など東アジアで知られるカジノキには大きな特徴の違いがある。ラテン語で表記される学名は両者ともBroussonetia papyrifera vent で同じあるが、かくも木の特徴が異なると困惑する。

  いつも台東(Taitung)で時間があると訪ねるのだが、海岸沿いに形成された森林公園で経常的に観察している琵琶湖湖畔のカジノキがある。カジノキは雌・雄が別々の木となっているが、意図的か偶然か湖畔の見晴台の左側にメスの木。右側にオスの木が植えられている。
  不思議にも掲載画像のように、この12月中旬の台東の森林公園において、メスの木にたわわにカジノキの実がなり、オスの木には立派な雄花がいっぱい咲いていた。2月頃に台東各地でカジノキの結実を見た記憶が残るが、この時期に、離れたオスの木、メスの木が互いにどのように知らせ合い、花を咲かせ実をつけて子孫を残していくのか、とても神秘的なことだ。
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  今後、インドネシア・中部スラウェシ(Central Sulawesi)における暮らしや風物、樹皮紙(Beaten Bark Paper)の現地レポートなどを少しずつ再開していく。
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# by PHILIA-kyoto | 2011-12-18 12:50 | オーストロネシアン研究  

カジノキKazinoki に想う

京都・祇園祭にひと息

  今年は4月中旬から3か月間、東日本大震災で津波の泥と海水を被った大量の国の機関の重要バイタル・レコードの復旧作業に従事し、休息のない日々だった。
  やっと作業の合間に祇園祭を見に行くことができた。
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いつもながら、のんびりできる三条の素夢子で韓国菓子と濃厚なゆず茶を満喫した。

  ブロッグをなかなか更新できないでいるが、「古代之風」http://kaze.world.coocan.jp  というHPの内容に、最近、心を揺すぶられることもあった。東アジアでの「乞巧奠」に深くかかわるカジノキ。その根幹のなかに、何かオーストロネシア語族に共通する「樹皮紙文化」の痕跡が色濃く沈み込んでいるように思える。国内の遺跡からのカジノキの実の出土報告が正しければ、おそらく縄文後期頃に、その文化や産物は南方から日本にもたらされたのだろうが…。
  だが、それらに関する総合的な調査・研究は、国内的にも国際的にも手がつけられておらず、ひっそりと歴史の中に埋もれている気がしている。
  『民族芸術』27号(2011年3月発行)に「新石器時代に世界に伝播した樹皮布/樹皮紙」という論文が掲載されているが、これまでのすぐれた先人たちの調査研究を集成し、新たな調査研究の視点やデータを加えたロマンあふれる「カジノキ」にまつわる伝承、事実を開拓していく営みを期待している。f0148999_1851314.jpg

  なお、平安時代頃から現代に至る京都には、「カジノキ」にまつわる歴史的事象や痕跡が多々見つかるのだが、奈良・平城京時期におけるカジノキの痕跡は未だ報告されていない。


東日本大震災から4か月

  あれから4か月が経ち、文化庁の東日本大震災被災文化遺産レスキュー事業に従事する各国立博物館職員や、被災地支援に派遣される国立国会図書館、国立公文書館などの職員の数は増えてきた。彼らが、「出張」として税金で交通費、滞在費、日当などが賄われ被災地に出かける一方で、自分の休暇を使い、交通費、滞在費などすべて自己負担でレスキュー活動ボランティアとして参加せざるを得ない現状に違和感を感じている。(ボランティアにお金を渡せば済むことではなく、被災地支援で何を大事に考え、どのように血の通った被災地支援を拡充していくか、という基本的なところに、現状では課題があるように考える。)

  広大なエリアにまたがる東日本大震災という「スーパー広域災害」に、これからどのような体制で、官民連携した復旧、復興支援がなされていくのか?
  阪神淡路大震災で残された「過去の事例」を安直に学び踏襲するのではなく、今次の巨大災害の実情にマッチした斬新な発想、後世に役立つ事績を残すことを期待したい。

  そして、興味深いことだが、被災地支援の様相に関東・関西勢それぞれの土地柄を感じるが、東京被災文書救援隊などの提供している作業マニュアルを見ながら、愕然としている。戦場のような状況の世界各地の被災地で活動してきた印象からは、被災地ですぐに手に入れることが難しい資機材名が並び、外国語の氾濫する高邁な作業マニュアルよりも、簡便で、かつ実践的な作業マニュアルの方が役立つ、とする庶民的な関西勢に親近感をもつ。今後、関西の専門的な方々が、今次の災害支援に参画した経験から、関東勢には思い描けない実践マニュアルを提供していくことに期待したい。

  明日は奈良から東北に移動だ。
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# by PHILIA-kyoto | 2011-07-16 18:53 | 乞巧奠とカジノキ  

デジタル・ジェノサイド

なぜ東北大震災でデジタル・ジェノサイドは起こったか?

  不思議に思われませんでしたか?
  
  東北大震災の発生から1週間目頃から、テレビや新聞、ネットを通して、被災地で「思い出の写真、卒業証書、位牌など」を探す活動が紹介され、喜ばれていることが頻繁に伝えられていました。

  この活動自体は、最愛の家族や親族を津波で失った方々に、数少ない「遺品」や「思い出」を残す大事なことですが、このアナログの品々の探索にかき消されて、16年前の阪神大震災の時と異なり、今ではIT情報化社会、デジタル主体の世の中になっていることが、忘れられていたことが奇妙に思えました。
環境省は3月25日に被災地の「瓦礫の撤去に関してのガイドライン」を被災7県に通知し、写真アルバム、卒業証書、ランドセルなどをガレキ撤去時に残す後押しをしました。だが、電子政府を推進した総務省や、IT情報化社会を推進した経済産業省は、何を被災7県に通知したのでしょう?

  16年前の阪神大震災当時と比べて、格段にデジタル媒体を使うIT情報化社会になっていることは、身の回りを見渡せばわかる。会議録や論文はパソコンで作成され、画像や映像もデジタル式。テレビも電話もデジタル式。銀行や医療機関のデータはデジタルで記録保存されている。大会社も小企業も、家庭でも、業務活動はデジタル・データで満ち溢れています。

  だのに、だのに…。 政府の通知にも、大儲けしているデジタル関連企業からも、津波で被災したデジタル媒体、デジタル・データを復旧する「救護所」を被災各地に開設した、などの情報は発信されなかった。アメリカのハリケーン・カトリーナの被災後には、被災現場の各所に「デジタル救護所」とでもよべる対応拠点が開設されていたのですが....。
  なぜ、東北ではデーター・サルベージやアドバンス・デザインさん達しか「ミニ救護所」を開かれなかったのでしょう???

  これは、津波後の人災であり、デジタル・ジェノサイドというぐらいに恐ろしいことのように思えます。

※今回の東日本大震災に絡むデジタル・ジェノサイドに関し『月刊IM』2011年7月号に「東日本大震災とデジタル・ジェノサイド」という記事が出ました。<2011年6月29日情報追加>

被災文書の復旧作業で懐かしい京都に

  阪急電車の駅には便利なサービスがあり、登録すれば一日300円で自転車が借りられる。最寄駅から嵐山まで桂川沿いのサイクリングロードを走って40分。
  この季節の嵐山・天龍寺のハス池は、新緑とサツキの花に囲まれていたが、池には枯れたハスの茎が点在しているばかりで、夏の美しいハスの花園とは趣は異なった。f0148999_2227142.jpg

  京都は好きだが、奈良の小さなカフェ「みりあむ」のカレーと手作りクッキーを食べて、歩き始めた奈良教育大学付近から奈良ホテルあたりまでの新緑の美しさにも心打たれた。何もないのが奈良の良さなのだろう。
  東北大震災と奈良、京都の不思議な関係。京都に居ても思い出すのは、岩手県山田町役場から見下ろした焼けた街の光景、盛岡の居心地の良いお店の雰囲気。 何度も何度も東北を訪ねてみたいですね。温泉もたくさんありますし。
  
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# by PHILIA-kyoto | 2011-05-16 22:42 | 東北大震災2011  

東北・関東大震災 被災地にて

被災地の”デジタル媒体”に気をつけて!!

  2011年3月21日深夜に、名神、北陸道、磐越、東北道を通って三春町でブルーシートなどを降ろし、仙台に入った。

  まず、確認したかったことは、阪神大震災、アチェの時にはマイナーだった「デジタル媒体」の被災現状と「津波の塩分目安」であった。

  スマトラ大津波の際のアチェでは、津波襲来の1ヶ月後頃には、街路や墓地の緑の並木は、巨木を除き、完全に茶褐色になって枯れてしまっていた。津波の塩分に起因すると考えられた。
  宮城県蒲生地区、荒浜地区、亘理地区などの若木の松や生垣は、依然として緑色を保っていた。これから、枯れ始めるのだろうか?

  今次の被災現地では、紙製の思い出の卒業証書、写真アルバム、絵画などが、自衛隊や地域の人々により、探され救出がなされている。そのことはTV、新聞報道からもわかる。
  だが、今は主流となった記録用デジタル媒体のことは、注意を喚起しないと目立たないで埋もれてしまう、と心配された。

  津波で大破した公的機関の行政文書、企業の業務データ、弁護士など専門職の業務記録、商店の商取引記録、学術機関の調査研究データ、個々人の思い出の記録写真と映像。これらの多くが”デジタル媒体”で作成され、保存されていたと想定される。

  アチェでの苦い経験からは、デジタル媒体は、津波で水損した場合、「1.起動して作動テストをしてはならない」「2.真水で軽く洗い流す」「3.乾燥させない(濡れたタオルなどで包んでおく)」「4.凍結乾燥を行ってはならない」「5.濡れた状態で、速やかにデジタルデータ復旧専門会社に復旧を相談する」。
  詳しいことは、世界企業オントラックなどのホーム頁で確認してほしい。

  デジタル媒体の場合、紙や写真より、迅速な救助処置が必要とされる。

被災地に湯気の立ち上る"食べ物屋台"を届けよう!!

  被災地は、まだまだ寒い。昨日も水溜りが凍っていた。雪がちらついていた。

  冷たいおにぎり、ペットボトルのお茶で飢えをしのげるが、そろそろ身体が拒絶反応を始めてきている。

湯気の出る食べ物が食べたい。 おでんや豚饅、フランクフルト。あるいは屋台のたこ焼きや回転焼き。お祭りに出ていた、屋台が被災各地に繰り出し、ONEコインで楽しく胃袋を満足させることができたら、どんなに元気が出るだろう。雰囲気が明るくなることだろう。
  みんなで「湯気の出る食べ物屋台」を被災地各地(特に、物資の欠乏している地域を優先して)へ届けられないだろうか?

  阪神淡路では、南京町などで小さな発泡スチロールのどんぶりでラーメンや水餃子が安価で配られていて、暖かくうれしかった。 アチェでは、名物のピサンゴレン(バナナのてんぷら)が大きな油なべでフライされ、見ていて楽しく美味しかった。
  東北・関東被災地域では、何がこれから始まるのだろう? 被災した大勢の方々に隅々まで届けられる屋台の味を期待したい。企業の社会的貢献も、多様なはずである。

  震える寒さの被災地亘理にて
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# by PHILIA-kyoto | 2011-03-25 18:15 | 危機管理と災害  

バリ島カマサンなどの伝統樹皮紙絵画復活へ

インドネシアで、ほぼ100年ぶりに伝統樹皮紙絵画復活

  インドネシアのジャワ島ではダルワンDaluwang(表記は種々ある)、バリ島ではウランタガUlantagaとよばれる樹皮紙Beaten Bark Paperに伝統絵画が古来より描かれてきたが、100年ほど前にキャンバスやコットン布の導入で途絶していた。

  絵画を描く素材となる樹皮紙の手掛かりを求めることから、復活作業は始まった。日本人研究者と学生らを中心とした約13年間の地道な文献および現地調査を経て、ジャワ島中部のガルートGarutに今もダルワンを作る1家族が居ることを確認でき、探索の大きな手掛かりとなったが、その製作する樹皮紙は、とても絵画素材に使える品質ではなかった。
そこで、良質な絵画用樹皮紙素材を入手するために、2つの方策を講じた。

  1つ目は、ガルートに近いバンドンBandungで、ガルートと同様の道具を使って、紙漉きを生業としていた若手アーティストに依頼し、良質な樹皮紙を復元する方策。

  2つ目は、今も樹皮布制作を続けている秘境地域の中部スラウェシで良質な生産品を探す方策。この中部スラウェシでの数回の旅により、崩壊寸前の伝統的な樹皮布/樹皮紙生産の実態が明らかになり、加えて前世代の婦人たちが制作したような均質で汚れなどのない良質な製品を作れる技術者がほとんど居なくなっていることも明らかとなった。
  そのため、何度も現地の村に入り、対話を重ねて試行を繰り返し、今回はアサさん(84歳)、イネさん(75歳)の二人が作った樹皮布/樹皮紙を、バリ島、ジャワ島での伝統絵画用の素材とした。

  バリ島カマサンKamasan Paintingおよびジャワ島のワヤンベベールWayang Beberのモティーフを描ける絵師の探索と選定には1年以上を費やし、訪問対話の上で試作を描いてもらうなどのプロセスを経て、今回の復活制作に臨んでもらった。

f0148999_10151430.jpg  カマサン様式の絵画(88x101cm)【画像上】が1枚。ジャワのワヤンベベールモティーフの絵画が5枚。6カ月の歳月を経て完成し、MonDecorで保存に留意した額装を行った。インドネシアの未来に残る伝統絵画が形となり、復活したことは喜ばしい。2011年2月のことであった。
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# by PHILIA-kyoto | 2011-03-11 10:26 | 樹皮紙・現地情報2011  

吉野梅林の梅の古木達との別れ

プラムポックス病

  文豪の吉川英治も愛した吉野梅林。f0148999_1124628.jpg毎年、早春に甘い梅の香りを風にのせて運んでくれた梅の古木達。
  今、その吉野梅郷の梅の古木や若木達が侵入してきたプラムポックスPlum Pox病に冒され、伐採が始まった。東京・青梅市立梅の公園にも画像のように張り紙が出され、数十本の梅の木が伐採されていた。
  おそらく、詳細は明らかにされていないが、吉野梅郷全体で数百本もの古木、若木が今回伐採されるのではなかろうか。
  
  宮崎を襲った口蹄疫で殺されたおびただしい数の牛や豚達と同じように、静かに息絶えていくたくさんの梅の木達のことを愛おしみたい。

  この災禍で、沈滞するのではなく、災い転じて福となす、努力を青梅の方々、梅を愛する方々が奮起されることを祈っている。伐採された梅の木々の近くには蝋梅が、春を告げる香りを漂わしていた。f0148999_1152649.jpg

  私たちの日々は、ますます忙しく、人の死、そして動物や木々の死に気持ちを向ける余裕は失われ、無感動になっていくのは、おそろしいこと。

  今朝のNHK/BS2の「緑~緑遊のすすめ」で、宇宙飛行士の野口聡一さんが体験された、人工的に管理された宇宙船の空間にはない地球の自然あふれる恵みと美しさ。そして、地球で体感する自然の感触、素晴らしさ、茅ヶ崎の海の磯の香り、という話に、教えられることが多かった。
  身の回りの平凡ながらも素晴らしい景観、自然に眼を向け、その自然の恵みを愛おしみ、自然の治癒力の限界を越えないように、人々が力を尽くしていく事の大事さを思う。

  秘境の扉が開かれようとしている中部スラウェシの地にも、素晴らしい自然とその恵みを大切にして、人々が織りなす希望ある未来が訪れるように、日本人に出来る事もまだまだあるだろう。  
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# by PHILIA-kyoto | 2011-01-09 11:15 | 身辺雑記  

スラウェシ慕情

中部スラウェシは雨季

  2011年のインドネシアからの便りは、「各地で雨がよく降っている」というものが多い。中部スラウェシも雨季のこの時期には、道路は各所で土砂崩れで寸断され、通行が危険となり、車での往来は激減する。例年雨季の終わる3月頃まで旅行者は現地入りを敬遠する。
  今年は、どのような状況となるのだろうか?

  新たな年を迎え、このブロッグをここまで続けてこられた事を感謝するとともに、関係者は老齢化で“活力”がなくなり、情報発信がだんだん難しくなっていくことを想う。

  樹皮紙/樹皮布を調べていく過程で出逢った「オーストロネシア語族Austronesian」。世界中に海を伝って拡散していった彼らの精神性、創造性には驚かされることが多々あり、その埋もれた実像を少しでも探求していきたいと思うが、現実は氷山の隅っこを垣間見たに過ぎない。

  樹皮紙/樹皮布は新石器時代からの石器ビーターstone beaterが各地に残り、原料となったカジノキBroussonetia papyriferaのDNAを解析した伝播ルート解明が可能で、民族学・言語学的痕跡など複合的な調査研究ができる貴重な題材であり、オーストロネシア語族研究のキーワードのひとつとなる。
  現状では、源流にあると考えられる中国大陸南部から台湾地域、そして拡散の道筋となった東南アジア、太平洋の島しょう地域とアフリカ大陸、そして新大陸を横断的に視野においた樹皮紙/樹皮布の総合的な調査研究はこれまでなく、今後の調査研究に委ねられる。

  今のところ、世界で唯一「生きた化石」のような痕跡が多々見つかっている中部スラウェシ地域からの成果は、新大陸との関連性を考察する上で魅力的に思える。
  
  樹皮紙/樹皮布に透かし模様water-markを加工する技法を教えてくれたバダの老婆も93歳となり、中部スラウェシにも押し寄せ始めた近代化の大波とも関係し、様々な地域において過去を知るための「時間との競争」が繰り広げられていることを思う。

  ひとりでも多くの人が「時間との競争」に関心をもち、限られた経済的、人的資源が有効に投入され用いられていくことを願っている。

  実に多くの懸案・課題が横たわっているが、中部スラウェシ・ブリリBulili村の子供達のように、未来に希望を灯し、技術や伝承を継承していく可能性のある人材を発掘し、支援を続けられればと夢見る。
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# by PHILIA-kyoto | 2011-01-05 11:38 | オーストロネシアン研究  

混迷する「台湾原住民」研究と文化活動part 2

輔仁大学織品服装学部展示コーナーにて

  輔仁大学Fu Jen Catholic Universityは、中国本土の共産主義化で台湾に移ってきた長い歴史を有する大学だ。特に、台湾原住民の織品、服装品の収集や研究に熱心に取り組んできた。その象徴的な「原住民の衣装」を紹介する展示コーナーに、代表的な台湾原住民のコスチュームを着せた人形が6体展示されており見せてもらったが、大きなショックだった。
  6体すべてが、シャンデリアの装飾のような揺れ動く金属の豪華な装身具を頭に載せ、金満ぶりを示すかのような豪華な衣装なのだ。大陸の少数民族の豪華衣装のようだ。
  台湾は、石器時代からの基層の上に南島文化が発展し、その後、大陸からの文化を受容したミックス・カルチャーの宝庫だと考える。

  南島文化は、人類で初めて「海」に漕ぎだし、世界に拡散していった「海の文化」だということを忘れてはならないだろう。

  台湾を空から見ると、しばしば荒波が逆巻く海域である。常に小さなカヌーは海の荒波に翻弄され、波にのまれて海に沈み、また方向を失い水や食料がなくなって死ぬ危険は非常に高かった。そのような恐怖を克服し、海に漕ぎだしていく勇気と技術は、どのように誕生し、形成されたのだろう?限られた空間しかない丸木舟(カヌー)の中に持ちこめる品々、身につける衣装は非常に限られていた。このような極限状態の中で生まれ、発展してきた「南島文化」の精神性、衣装やアクセサリー。
  今も、スラウェシのシャーマン(呪術師)が、必ず呪術で使う樹皮布Bark cloth(必ず白いカジノキ製)は南島文化圏全域で見られ、ただの衣服以上の用途が残っているのは、「海での恐怖を克服させるスピリット」を有していると信じていたからではなかろうか。

  台湾原住民の衣服、装飾品の歴史を考える上で、基層にある「南島文化Austronesian culture」とその後影響を受けてきた「大陸文化」の、それぞれの痕跡、融合の姿を注意深く調査研究していかなければならないのではなかろうか。

  台湾原住民の調査研究は日本時代の成果に大きく依拠してきたが、近年発展してきたオーストロネシア語族の研究成果を加味した、新たな調査研究への転換期にあるように思える。台湾がどのような将来の政治的な選択を行うとしても、暮らしの足元に存在する基層文化、痕跡を排除する事は不自然だろう。
 
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# by PHILIA-kyoto | 2010-11-07 13:45 | オーストロネシアン研究  

混迷する「台湾原住民」研究と文化活動

台北・南天書店にて

  中央研究院の出版物を買うために南天書店を訪ね、店員と日本語での会話を楽しんだ後、目につくところに配架してあった本を数冊パラパラと眺めてきた。
  以前、このブロッグの2008年12月19日の記事として「悲しみの国立故宮博物院」を載せたが、学術文献が主の南天書店に並ぶ「台湾の歴史」「台湾原住民」関連のものでさえ、この悲しみを増幅させるものが多いことに驚く。店員が持ってきてくれた喜安幸夫氏の『台湾の歴史』の最初の頁をみても、現在台湾で見つかっている考古学的な痕跡は、今日にいう先住民、いわゆる高砂族との関連は認められていない、と説明。著名な本でもこのような理解のため、一般的に閲覧されるWikipediaでは、「考古学の発掘は未だ(台湾における)新石器文化と台湾原住民との間の具体的な継承関係を確定できていない」と解説しているし、他のウェブや旅行ガイドでも類似の説明か大航海時代以降しか扱っていない、奇妙な台湾の歴史理解となっている。

「有槽石棒」という考古学用語に秘められた台湾考古学の悲劇 

  今日の台湾原住民と新石器時代文化との「断絶」を意識づけた過誤は、台湾考古学界の重鎮達にあった、と思われる。すでに日本統治時代に鳥居龍蔵らは、台湾原住民の言語に南島言語(オーストロネシア諸語)との類似性、共通性を指摘していたが、当時は十分な発展を遂げる状況になかった。

  最近になり、ピーター・ベルウッド、R.D.グレーらの世界的なオーストロネシア語族研究が盛んとなり、語彙統計学の手法によると台湾がオーストロネシア諸語の源流にあることが明らかとなった。このことは、すでに日本植民地時代、また凌純声(中央研究院初代民族学研究所所長)らの1960年代のフィールド調査で採取された台湾原住民の中に残る語彙が南島言語に共通する、とした指摘が学問的に証明されたこととなる。

  新石器時代に、台湾など東南アジアから太平洋諸島、マダガスカル島、イースター島にまで拡散した樹皮布文化の中に、各地で共通する語彙が見つかっており、台湾原住民のいくつかの部族にも似た語彙が報告されてきた。もし、新石器時代の南島文化と現在の台湾原住民に断絶があったとすると、言語的な共通性を見出し、祖語としての位置づけも成り立たないのではなかろうか。
  2010年1月に出版された『珍惜台湾南島語言』(李壬癸著)の帯に「台湾最有可能是諸南島語族發源地」とあるのは、刺激的だ。
  いずれ、新石器時代に台湾で生活していた「古代台湾人」と「現代原住民」(この定義と変遷も複雑だ)との関連性はDNA研究などの進展に依り、科学的に解明されひとつの結論がでる。

  石器ビーター(樹皮を叩き延して樹皮布/樹皮紙を作る道具)を含め有槽石棒とした苦肉のネーミングが語る台湾考古学界の悲劇については、歴史自身が過去を語ることだろう。そして、世界的に展開されてきたオーストロネシア語族研究が、今後の台湾の古代史と原住民研究に「光」を照らすことを願う。
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# by PHILIA-kyoto | 2010-11-07 13:27 | オーストロネシアン研究  

メキシコTemplo mayor遺跡で見た紋様

中部スラウェシとメキシコの紋様の酷似

  中部スラウェシの州都パルPalu。今回の現地調査で、ずっと頭に引っ掛かっていたのは要所要所で見つかる「紋様」のことだった。石器ビーターに刻まれた「紋様」、伝統衣服に描かれた「紋様」、建物に彫られた「紋様」 ……。
  ここのパル州立博物館のメイン展示ホール入口の壁面に描かれた大レリーフ。その最も目立つ場所に、メキシコ・シティのテンプロ・マヨール遺跡の北側から発掘された神殿門のレリーフ(写真右)と酷似した紋様(写真左)が刻まれていたのを見た瞬間には、神秘的な驚きで胸が高鳴った。単なる偶然の似たものかもしれないが、このパル博物館の大きなレリーフの下絵を描いたのは、初代博物館長だったが、すでに他界していた。彼は、それまでの長いスラウェシでの調査研究で得たものから重要と考えたものを博物館壁画の下絵に反映させた、と言われているが、今となっては「何が重要だった」のか不明となってしまったようだ。f0148999_19502062.jpgf0148999_19504640.jpg











  この花模様のような「紋様」は、2009年11月27日付のブロッグに掲載した石器ビーターの下右写真の右端の紋様とも似た形をしている。  どんな意味が秘められているのだろう? 
  何かスラウェシとメキシコには、つながりがあったのだろうか?

  中国南部―台湾-スラウェシ―ハワイ―メキシコ という一線上には、中国南部で7000年以上前に生まれた樹皮布/樹皮紙の歴史を探求する上で、何か深く調べるに値する痕跡が残っているような引き寄せるものがある。    
  オーストロネシア語族Austronesianに関わるものだろうか?

  国立台湾史前文化博物館Taiwan National Museum of Prehistoryの出版物『背児帯Baby Carriers』(2007.Fang Chun-Wei編)に所載されている、中国雲南省大理で撮影された背児帯の紋様(下画像)f0148999_11264022.jpgにも似ていて、引き寄せられる。ただし、大理の紋様は「古銭紋coin pattern」と解説されるが、パル博物館の紋様と見比べながら、どの部分を見てネーミングするかに左右される気がして、名称の精度について考えさせられた。

  ※2009年11月11日付の当ブロッグに書いた、スラウェシNapu渓谷で出会った老人達の多くの記憶に残る石器ビーターの透かし模様が、メキシコの遺跡から見つかった石器ビーターの透かし模様と同じであった、ということも気になる。
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# by PHILIA-kyoto | 2010-10-20 11:43 | スラウェシ現地情報2010  

難渋するワヤンベベールの復元準備作業

ジャカルタのギャラリーで展示とミニ・レクチャー

  東京・王子の紙の博物館で2010年6月、盛況裏に開催された企画展「新石器時代から花開いた樹皮紙の美」。その後、インドネシアに2セットしか残っていない樹皮紙に描かれた≪ワヤンベベールWayang Beber≫の困難な復元準備作業が一歩ずつ現地で進んでいる。現存する2セットは、長年の使用と高温・多湿の保管環境により、劣化損傷が著しい現状となっている。<下画像は、東ジャワでのワヤンベベール上演風景>f0148999_10462364.jpg

  100年以上の空白から、幅75cmで4mもの長さのワヤンベベール用の樹皮紙を製作できる熟練者が見つからなくなっており、中部スラウェシで製作可能な製作者を数年かけて探し求めてきた。84歳と75歳の二人の婦人の製作技術が目を引いたことから、カジノキの原料を各地から集め、テスト的な製作を依頼してきた。だが、石器ビーターでカジノキの樹皮を叩き延していくことから、4mもの長さの樹皮布をこれまで作った経験がないと、その壁を越えるのは意外と難しい現況だ。また、50年前頃のものでは存在した、巻取り可能に平坦に仕上げることが中々出来ない。さらに、一カ月ほど要する工程のどこかで、飛び交う調理の煤や汚れが付着し、製品とならなくなる…などなど、実際やり始めてみると、予想をはるかに越えて難渋している。
  また、伝統モティーフを描く絵具が、ジャワ島でもバリ島でも「アクリル絵の具など」の新素材に占領され、古来の絵の具traditional pigment & dyeの製法が消えかけている(あるいは、消えてしまった)。これは、深刻な問題で、個人でどうのこうの出来るレベルではなくなっていた。この問題は、世界無形遺産に登録されたインドネシア・バティックにも共通するようで、次の一手を考えなければならない。f0148999_1050352.jpg

  インドネシアの地元では、あまり深みのある調査研究や危機感をもった活動に出会えないが、やはり地元なので、外からの情報や刺激を注いでいかなければならない。
  ということで、ミニ・レクチャーと展示会exhibitionをジャカルタJakartaのギャラリーで行った。展示した樹皮紙に描いた作品は、260x125cm, 220x128cmの大きなものと、69x50cmのもの3点、バリ島伝統のカマサンstyle2点の計7点。

  私どもの世代で、あと何枚このような作品が製作できるのか? 夢見る、古来の素材、絵の具を使った作品は、果たして、いつ実現できるのか?
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# by PHILIA-kyoto | 2010-10-13 11:09  

Bulili村の伝統樹皮布コスチューム復元

子供達の笑顔④

  「まだ間に合うプロジェクト」の実施を発想したのは、2008年の現地調査の折に通ったノモ村の学校で伝統ダンスを練習する子供たちの様子を見せてもらい、先生方から「樹皮服を着せて伝統ダンスを踊らせたい」という熱心な声が寄せられた時であった。急速に変貌して行く現地への危機感と恩返しの気持ちで、現地を知る研究者の知識とネットワークを使って、何か恩返しの真似ごとをしたい、と考えていた。明日では、もう手遅れになって出来なくなることも、いま始めれば「間に合う」こともありそうだ。

  一番目の実施は、ノモ村でなくブリリBulili村となった。

  課題は、年配の先生方にも記憶がないほど数十年も樹皮布コスチュームを製作したことがなく、マテリアルを誰が作るか、誰が縫製するか、誰が刺繍や紋様を描くか、誰が首飾りなどを作るか??村々に昔は存在した職能分担が喪失してしまったのだ。奇妙なことだが、村の人よりも、今は研究者の情報の方が奥深い場合がある。
  近隣で一番いい仕事をしてくれる熟練世代の候補者の名前を挙げて、プロジェクトを担う先生方と協議し、一歩ずつ事を進めていった。残念ながら、村に長期滞在できないことから、算出された総額を校長先生に託し、4ヶ月後の独立記念日を目標に完成を急ぐこととなった。

  それから、どうなったか……

  約束した8月17日の独立記念日には行けなかったが、長期休暇中であった8月26日(木)に学校を訪問。校長先生は、新調なった踊り子用12着、楽士用4着の仕上がった樹皮服を見せて下さった。(よく見ると、まだ4着分の装飾作業が済んでいなかったが。)f0148999_8444427.jpg

  28日の土曜日は、心配した天気も晴天となった。新調したカジノキの白い樹皮を叩き延して作った樹皮布コスチュームを着て子供達が伝統ダンスを踊って見せてくれる日だ。校庭に生えた草を牛が食むのどかな朝。校舎の周囲には、見物に集まった村民たちが大勢見えた。インドネシア国旗を先頭に、ゴングをもった男子生徒が続き、この地域に伝わるデロ・ダンスが始まった。忘れられていた記憶や技術が戻り、結集して今日の日を迎えたのだから、よくまとまって頑張った。f0148999_8461737.jpg

  踊る子供達の、愉しそうな表情。明るい。小一時間でダンスのお披露目は終了した。

  新調した樹皮服を着て踊った子供達に、「服の着心地は?」と聞くと、どの子も「着心地いい!」と言って、脱ごうとしない。とっても、晴れやかで、自慢げだ。まだ、間に合った。
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  他の村々の学校でも、伝統ダンス用に樹皮服を新調したい声はあるようだが、実現していくには、地域毎にコーディネートし、人を発掘し資金を確保していくことが必須となる。
  樹皮服を着て伝統ダンスを踊る未来を担う子供達が、ロレ地域の村々に広がってほしい、と夢見る。
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# by PHILIA-kyoto | 2010-10-12 09:00 | スラウェシ現地情報2010  

バダ渓谷での樹皮布/樹皮紙現況

「生きた化石」の伝統技術を継承する新しい動き③

  希少な「生きた化石」とされる中部スラウェシの樹皮布/樹皮紙製作技術と伝統文化は、これまでの内外NGOなどの技術継承ワークショップや販売促進が功を奏せず、衰退の一途をたどっている。
  どこに功を奏さない問題があるのだろう?

  ロレ地域を廻って気づく事は、地場産業としての地位を失い、世代交代が進まなかったことから、現在の作り手は高齢化し、若い世代が製作に従事していないことだ。このことは同時に、原料となる樹木のカジノキ(Bea, Ivo)の維持を怠り、本数が急減してしまうことを招いた。50年前頃の樹皮布を手に取ると、均質で、仕上げが美しく、品質の良い、ほれぼれするような品と出会うことがある。今、当時のような高品質のものを製作できる熟練者と切磋琢磨する環境は失われたようだ。まあまあ満足できる84歳と75歳の老婦人の製品が、今後あと何枚生産できるのか心もとない。

  この難局をどのように克服できるのか? 天を仰ぎ、次の手を考える。

  f0148999_13133554.jpg伝統地場産業としての経済的魅力創出と同時に、高い昔の品質への回帰、向上を促す努力をしよう。良質な原料樹木を増やし、切磋琢磨して、良質な製品を作る意欲が育ってほしい。(画像作業風景は、娘に技術を伝えようとする老婦人。乾燥作業後、二人で樹皮布を引っ張って平らに延ばす。延した後、砧打ちを行い平滑に仕上げる。)f0148999_132644.jpgf0148999_132281.jpg









  後日紹介するBulili村での、樹皮布コスチューム復元のチャレンジと、樹皮服を着て伝統ダンスを踊る子供達の喜々とした表情は希望を感じさせる。
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# by PHILIA-kyoto | 2010-10-11 13:16 | スラウェシ現地情報2010  

バダ渓谷への中継地テンテナTentena

ポソ湖に面した美しい町テンテナ②

  テンテナTentenaについては2008年8月21日の当Blogで、この地に100年ほど前に居を構えていたA.C.Kruyt(1869-1949)のこととあわせて紹介した。テンテナからペンドロに広がるポソ湖Lake Posoは今も地域の人々の交通、漁獲物などを支える。緑の丘を背景に湖畔に建つ教会などの美しい景色を見ているとスイスかノルウェイに居るかと錯覚する。f0148999_10595725.jpgテンテナにはIntim Danau Posoなどのホテルがあるが、新しく地元実業家が湖畔に見晴らし良く張りだしたCafe & Hotelを開設していた。名前はまだない。湖に飛び込むと透明度は高く、すぐそばに魚がたくさん見え、湖底にはシジミのような貝が多く生息していた。だが、湖の水質保全上は、この新しいホテルが本格稼働すると排水など環境問題が発生すると思われる。
  ポソ湖で目にする丸木舟や木造船は両舷にアウトリガーを装備しており、海洋民の伝統が残っているのだろう。

見事な滝Soluopa Waterfall

  バダ渓谷から下ってきてテンテナの町に入る手前。バリ人入植住宅などのあるところで本道から分岐し、ソルオパ滝への道がある。10分ほどで駐車場に。そこから400mほどの木立の中の遊歩道を歩くと滝に着く。これまでの「滝」のイメージとは異なった、天に広がり舞う花火のような自然の造形美だ!!
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テンテナにも複数の埋葬洞窟が

  テンテナTentena近辺には複数の埋葬洞窟burial cavesが現存していた。まだ調査は完全になされていないようだが、盗掘がなされてしまった洞窟もあるという。訪ねたのは、本道から登り坂を30分ほど行った崖に開いた洞窟に作られた埋葬洞窟だった。この場所では社会階級によって洞窟が分けられているとのことで、下方の洞窟は低い階級の人々、上方の洞窟は上位階級の身分の人々が1949年だかの政府の使用禁止令までは使っていたという。ヒヤッとした冷気が感じられる洞窟を覗くと人骨がおびただしく埋葬されていた。トラジャよりも早い段階の埋葬洞窟とされるが、調査が進んでいないことが惜しまれた。f0148999_114944.jpg
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# by PHILIA-kyoto | 2010-10-11 11:44 | スラウェシ現地情報2010  

バダ渓谷への小さな旅

バダBadaへの旅の記録①

  2008年8月時点では、外部から閉ざされ「秘境」の趣の強かったロレリンドゥ国立公園Lore Lindu National Park南縁エリアに位置するバダ渓谷地域であったが、この数ヶ月で急速に開発が進んでいるように思える。f0148999_9311540.jpg
  隔絶感を感じさせていた大河を渡る「イカダの渡し」は消えて立派な鉄橋(画像右)が完成し、村々の丸木橋はセメント製に次々と掛け替えられている。自動車道路網がヒタヒタと押し寄せているようだ。これは、これから進行する大きな変化の前哨だと思う。

  2010年8月某日に中部スラウェシの州都パルPaluを朝9時にトヨタ・ラッシュで出発。折りしもイスラム教の断食期間中で、同行者達は日の出から日没までの時間帯、旅の道中飲食物や水、タバコなど一切口にすることはできない。ポソの街を13時ころ通過し、標高500 mほどのテンテナに16時前に到着。ここで、夕食用の紙に包んだ「焼き飯セット」とヤシの実、バナナなどを購入。ドライバーには過酷な行程だが、そのまま一気にバダ渓谷の村まで走行することに。漆黒の深山の霧空に丸い月と輝く星が時々見えた。幻想的だ。20時過ぎボンバBombaの簡易宿泊所に無事到着。距離にして370キロほど。

  バダ渓谷地域には9つの村があったと思うが、樹皮布/樹皮紙を主に製作しているのはGintu, Bewaの2つの村の数軒だけとなった。満足できる製品を作れると評価したのは84歳と75歳の2人の婦人のみで、他の方々のは品質が粗悪で満足できるものではなかった。地場産業としての地位を失って久しいことから、若年層の参入がなく、継続的な世代交代がなされなくなっている問題がある。

  バダ渓谷の周辺には、ナプNapu渓谷、ベソアBesoa渓谷があるが、もっとも辺境の趣を残しているのは電気、電話のサービスを受けていないバダBada渓谷のみとなった。山々に囲まれた渓谷にゆったりと広がる水田や放牧地。日本人にはホッとする景色だ。
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  バダ渓谷Gintuからナプ渓谷のウワサWuasaまでは、車で7時間ほど。尾根を走る部分が多いが、突然の大雨に見舞われ道路はぬかるみ走行は苦難を極めた。泥沼にはまった車を押す時に、靴は泥に埋まって大変なことになった。運が悪ければ、崖下に車が転落しそうな危ない箇所も数箇所。

  バダ渓谷からベソア渓谷のDodaまでは同じく7時間ほどを要した。途中まではポソ経由ナプ渓谷へ行く道と同じだ。ベソア渓谷は、90年代に道路が開通し、樹皮布製作も時々頼まれて製作する程度になりほぼ途絶えた。
ナプ渓谷に入ったあたりで、中国が大規模なキャサバ農場を開墾中の現場を目撃した。新規開発分だけで500haくらいと言われており、ゆくゆくは数十倍に広げる計画らしい。

  このバダ、ナプ、ベソア渓谷には巨石megalithic遺跡が豊富に残っており、地元の遺跡管理者(州政府役人)の案内で見て回ることが可能だ。下画像は、5個の石器ビーターが出土したナプ渓谷Napu Valleyの小川の上方に位置する高台の遺跡Watunongko siteに残る「舟形カランバ(石棺kalamba)」。f0148999_9501398.jpg
  なお、規則上は、調査にはRISTEKという政府部署へ調査ビザの発給を申請する、またロレリンドゥ国立公園内への立ち入りにはパルの森林局へ入域を届ける、などなどの手続きが必要となるので、事前に旅行業者などに問い合わせることが望ましい。

※②以降で、中部スラウェシの旅の様子を連載する。
<2010年10月11日情報追加。>
 
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# by PHILIA-kyoto | 2010-10-07 10:39 | スラウェシ現地情報2010  

メガリティック石に刻まれた文様

Bulili村にて

  中部スラウェシLore地域Bada渓谷にあるブリリ村は、昔話に「バダ地域に人が住む初めの時に円を描いて望ましい場所を歩いて探し、円の中心に位置した場所が選ばれたことから、円の中心を意味したブリリという名が村につけられた」と語り伝えられる。

  このブリリ村の子供達が伝統ダンスを踊る際に着る樹皮布のコスチュームを製作するお手伝いと経済的支援をしたが、そのことについては追って述べたい。

  f0148999_7181655.jpgここでは、ブリリ村に残された3000年前頃と推定されるメガリティック石に刻まれていた、珍しい文様を紹介しておこう。この「花」のようなモティーフは、このBlog2010年10月20日の記事などで紹介したスラウェシの石器ビーターやメキシコのテンプロ・マヨールTemplo Mayor神殿の入口、雲南・大理のBaby carrierに残された模様に一脈通じるものがあるのではないか?いったい、何を示す模様なのか? (メガリティック石には、人物や動物の顔が刻まれたり、あるいは天体を占ったとされるピットマーク石は数あるが、花や太陽のような模様が刻まれた例は現在のところ非常に珍しい。)

なお、このBulili村に残る巨石に刻まれた花形とハート形の模様について、スウェーデン人考古学者Walter Kaudernが1917-20年に行った中部スラウェシ現地調査の報告である『Megalithic Finds in Central Celebes』(1938)のp.104-107に写真と論述がある。

※2010.10.20 一部情報追加。
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# by PHILIA-kyoto | 2010-09-07 07:23 | スラウェシ現地情報2010  

Central Sulawesi・Lore地域

変貌が始まった巨石遺跡地帯の暮らし

  2008年8月に入ったインドネシア、中部スラウェシLore地域は秘境の感があった。約170キロ南のトラジャ地域までは観光客が簡単にアクセスできるが、ロレ地域は閉ざされた地域であった。

  しかし、この2年で急速な変貌が進んできた。この8月の訪問では、相変わらず異常気象の大雨が降ると土砂崩れが各所で発生する状況は同じだが、道路はコンクリートやアスファルトになっていき、主要道路沿いの復旧ペースは格段に強化されていた。これまで秘境の関門だった「イカダの渡し」にはコンクリート製の架橋がかかりその座を譲っていた。その一方で、昔から使われてきた「歩く道=バイク道」の荒廃が顕在化してきたようだ。愉しみだったGinpu-Bada間のバイク道は通行不能になったままで、復旧の目処はたっていなかった。
  バダの村々の各所に、重い自動車が通行できる橋が次々と建設され、アスファルト舗装を行う重機が忙しく作業を行っていた。

  閉ざされてきた秘境の扉が、いま壊され、大きく外に向けて開かれようとしている。
美しい大地の広がり、優しい人々の絆が、どのように継承されていくのか。すばらしい巨石遺産や3500年以上続いてきた樹皮紙/樹皮布文化が、息づいた形で守られていくことを祈念する。

Napu渓谷に透かし模様の刻まれた石器ビーターを追って

  おそらく、ナプ渓谷地域には、樹皮布/樹皮紙製作に「透かし模様を入れる石器ビーター」が使われる不思議な文化があったと推察される。(同じような石器ビーターは、なぜかメキシコの遺跡からも見つかっている。)しかし、今では正確な情報は失われ、かすかな残照しか見られない。Lore地域には、古くからTuaha Mahile, Kabilaha, Tau Maroa, Hawi という階級区分が存在し、今も生きている。儀礼で頭に巻くシガSigaの色や模様が階級区分を示すように、「透かし模様」も、この階級区分と関係したのだろうか?

  今回の旅でも、有力な痕跡とは出会えなかった。「お百度参り」という言葉があるが、もっともっと困難な旅を続けなければならないのかもしれない。
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# by PHILIA-kyoto | 2010-09-05 13:55 | スラウェシ現地情報2010  

中部スラウェシの子供達と

樹皮布文化Bark Cloth Cultureを次世代に!!

  2010年8月のインドネシア独立記念行事に、中部スラウェシBulili村の子供達の伝統ダンス・チーム全員が、地域の樹皮布製作者の奮起で新調される樹皮布コスチュームを着用できるか、期待している。
  ブリリ村の学校校長、ダンスを教える先生達、長年作ったことのなかったフルセットの子供用樹皮布コスチュームを製作するおばさん達など、の連携がうまく実らないと実現しない、多難の夢だが……。
  独立記念行事の日を、半分期待し、半分心配し、結果を待とう。 まあ、ダメでも来年に向けてやればいい。f0148999_10522991.jpg
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  このブリリ村の学校図書室の棚には、普段使う教科書と数冊の地図、副読本が貧相に並んでいるだけだった。だれの責任でもない。中央政府も、地方政府も、山村の子供達に「子供の本を読ませよう、届けよう」という施策を実行しないだけのことだ。 ならば、バイクタクシーで運べるだけ、少しずつ子供の本を、山村の学校に届けよう。 運よく、インドネシア語の全国の民話の本に「ブリリ村の昔話」が所載されていた。 見つけた先生方や子供達の、驚いた顔、顔、顔…。 少しずつでも、また届けに行こう。 この山村の子供達が、子供時代に子供の本を読む機会が生まれ、何か心の糧になることを期待しよう。

  中部スラウェシの今は乾季だ。 奥まったBada,Besoa,Napu Valleyの地域に埋もれている新石器時代からの痕跡や情報が新たに見つかることを期待したい。
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# by PHILIA-kyoto | 2010-08-11 11:01 | スラウェシ現地情報2010  

災害対策に新しい発想と取組みを!!

表層対応に終始する日本の危機管理と災害対策

  災害大国と世界的に指摘される「日本」だが、そろそろ付焼刃のバラバラ対応を見直す必要がある。

大きな枠組みに関しては、現在の人命救助と最低限の生活支援を主とする「公的災害救助機関」、そして善意の塊の「ボランティア集団」の2極化では限界がある。失われるものが大きく、多すぎる。
  世界を見回せば、「公的災害救助機関」と「ボランティア」の狭間を充たす『災害復旧支援会社』が世界的規模で数社ある。BELFOR、BMS-CAT、Muntersなどである。これらの災害復旧支援会社が良質な様々なサービスを展開し、さらに及び腰の日本の保険業界が、災害復旧支援会社のサービスを受けやすくする、災害時に困らない応急処置・復旧対応型「保険商品、制度」を構築していくと、災害後に苦しむ人々、人生を狂わせる人々や企業などは、大幅に減少する。
  
  それと、今後「災害の被害形態が変化していく」兆候がみられる。都市も山村も、突然のゲリラ型豪雨に襲われ、「予想を大きく超えた災害」に直面することが増えそうだ。台湾南部の深層土砂崩れ、マドゥラ島の土砂崩れなどの事例は、明日の日本の惨状を予想させる。
  もっと、「自然」「山野」「森」などを「守り、大切にする」取組みを増やさないと、巨大なスケールでの災害、これまでの土木防災対策を超える事象に振り回されることが心配される。
  世界的に増えてきた「自然の学校Sekolah Alam」「デンマークにルーツがある森の幼稚園」などを通して、未来を担う子供達と大人が協働し、大地を災害から守っていく意識を涵養していくことを、社会が支援していく必要を感じる。

  変な風潮となってきた「エコ」「環境対策」では、巨大化する自然災害に遅れを取るだろう。
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# by PHILIA-kyoto | 2010-07-17 11:14 | 危機管理と災害  

東京・紙の博物館 企画展の会期もあと1週間

百聞は一見に如かず

  東京・紙の博物館で2010年7月4日(日)まで開催中の樹皮紙についての企画展ほど、頭でイメージしていたモノと展示されている実物との違いに驚いたことはなかった。

  「樹皮紙」って知らなかったし、見たこともない人多いですね。

  実際に見学し、日本の考古学や文化人類学、東南アジア研究者などの、専門家の方々は見る必要があると思った。
  こんなに素晴らしい、高度な樹皮紙、樹皮布を作ることができた古代の人々。その主な担い手であったと考えられる新石器時代に海に飛躍したオーストロネシア語族Austronesian。
  GPSもない新石器時代に、現代の技術でも恐れられる荒海に漕ぎだしていった勇気と技術力。
  そのすごさ、想像できますか??

  「紙」の起源を考える上でも一石を投じる企画展の展示品と展示説明だった。

毎日新聞の6月22日の朝刊記事(http://mainichi.jp/enta/art/news/20100622k0000m040033000c.html)を見て来たグループの方々とも会った。あまり知られていない「紙の博物館」での企画展なので、他の大手新聞でも紹介されたら情報は広がり、追い風になるだろう。

※おどろきましたが、その後、6月29日の朝日新聞朝刊(東京版のみ)と翌30日の読売新聞朝刊(文化面)に、紙の博物館企画展の記事が載っていました。<行けない人も、見どころが分かりますね。>

  見て初めて「目からウロコが落ちた」ような感激を味わった。 百聞は一見に如かず!!!
  企画展の会期は、7月4日(日)まで!!!

  この紙の博物館の企画展は「入門編」と紙の博物館学芸員の方は説明していた。
  いつか、興味あるマヤ、アステカの美しかった樹皮紙のこと。 日本の冷泉家などのきっこうてん(七夕行事)で、あるいは、諏訪大社の社紋にカジノキがなぜ痕跡をとどめているのか。 もっと、掘り下げた企画展が待ち望まれる。
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# by PHILIA-kyoto | 2010-06-28 09:44  

紙の博物館・企画展が始まった

樹皮紙ってこんなにハイレベルだったんだ
  昨日6月19日(土)、東京・王子の紙の博物館で始まった「樹皮紙の企画展」を見てきた。
梅雨の中休みで晴天だったこともあり、開館時にはグループ見学の方々がかなり来ていた。

  樹皮紙って、新石器時代にもう作られていた…なんて、知っていましたか?

  メキシコに旅した時、樹皮紙Amateを買って、すごくキレイって感動したけど、昔のものは今のモノとは雲泥の差でハイレベルな樹皮紙を作っていたなんて不思議な気がします。いつも時代は、上昇傾向で進歩、発展して行くもの、って決めていたので。
  
  今回の企画展は、スペースが限られていて、インドネシアを中心にした出品でしたが、大好きなハワイにも100年ほど前には、あんな絹地のスカーフのような薄い樹皮で出来たタパが存在したことをビデオ・コーナーの傍にあったパネルの写真で知りました。  いつか実際の美しい樹皮のタパを見たいナ……。
 
  入館料が300円要りましたが、世界で初めて展示されたとても珍しいマジャパイト期の遺跡から出土した鹿の角やブロンズのビーターなどの品々や写真を見ていると、日本の名だたるテレビ局でも見つけていない「すごい情報が世界にはあるんだ!!」って驚きました。
  あのTBSの「世界ふしぎ発見」で、中部スラウェシの秘境にある巨石像や樹皮のことをやっていたけど、その地域の新石器時代の遺跡(3500-4000年前ころだと考古学者は推定)から、スラウェシのおばちゃん達が使っているのと、同じ形の石器ビーター<叩き延して広げていく道具>が出土しているなんて、言ってなかったものネ。

  「紙の博物館」って子供の行くところと、先入観をもっていましたが、この企画展をみて、紙が専門の博物館だから、こんな驚きの企画展を、ひっそりとやってのけたのだと、感激しました。

  展示スペースの都合で、大好きなマヤ・アステカなどの樹皮紙の展示が数枚の写真しかなかったのは、とても残念だったけど、いつか紙の博物館さん、がんばってマヤ・アステカも含めた樹皮紙展を企画して下さいね!!!

  この企画展は、わずか7月4日(日)までの2週間で閉幕してしまい、この展示品すべては海外に流れてしまうそうです。 なんてもったいない。

ちゃんと許可をもらって撮った写真を載せておきます。
あのインドネシアを代表する影絵劇ワヤンのルーツ、ワヤンベベールの復元が数百年ぶりにされた写真も。
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# by PHILIA-kyoto | 2010-06-20 13:35 | 樹皮紙 紀行  

台湾、日本のコウゾ、カジノキの花

コウゾ、カジノキの開花

  今年の5月初旬から中旬あたりの台湾(台北、台東)ではカジノキ、日本(東京)では、ヒメコウゾ、コウゾ、カジノキの開花がみられる。

  下記の画像は、東京・青梅丘陵で見られたヒメコウゾの花だ。(同じ枝に雄花、雌花が咲く。)野生で随所に見られ、1,2年の若い木にも花を咲かす。雄花は小さく丸い。
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  2段目左は、東京・王子にある紙の博物館に植えられたコウゾの雄花だ。ヒメコウゾの雄花よりも長くズングリしている。この時期、小石川植物園に1本植栽されているコウゾにも紙の博物館同様の雄花が咲いていた。コウゾの花は、樹齢2,3年以上でないと咲かないとされる。



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  3段目左は、東京・小石川の東大・小石川植物園に咲くカジノキの雌花で、右側は同じ小石川植物園のカジノキの雄花だ。雄花はコウゾよりも細長く「くの字形」のものが多い。カジノキは明瞭に雌雄異株である。

  最下段は、この3月にインドネシアで撮ったマロの木と珍しい雌花の画像だ。以前紹介した雄花は、カジノキと似て細長く「くの字形」をしていた。f0148999_14493017.jpg
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# by PHILIA-kyoto | 2010-05-15 15:00 | 樹皮紙 紀行  

中部スラウェシへの旅 3

不便な観光、便利な観光

  中部スラウェシの地理的、自然的、歴史的な魅力は大きい。
しかし、地理的な辺境さから観光客の来訪は極端に少ない。それ故に残され、守られてきたものも多い。

  かっては道路も満足になく、電気も通じていない地域は、結構世界の各地にあったが、その数は急速に減ってきた(その反面、大都市などに新たな辺境の地が生み出されている、という声もあるが...)。

  中部スラウェシは、新たな転機を迎えているのかもしれない。
f0148999_21472124.jpgこのところ、中部スラウェシの「樹皮布・樹皮紙」にインドネシア国内・国外で注目が集まり、小さな風穴が開き始めてきている。

  便利な観光は、旅慣れない人々や体力的に無理できない人々に歓迎される。どこもここも、便利な観光に席巻されるのだろうか? 
  不便な観光も、様々な非日常の旅を必要とする若者やスピリチュアルな体験を期待する人々には切望されるものかもしれない。 
  便利な観光から逆行して不便な観光には、普通では戻れない事なので、失う前に考えなければならないことなのだろう。

  不便さゆえの「感謝の気持ち」「人々の優しさ」。f0148999_2148538.jpg
村に入るたびに、心を癒される子供たちの笑顔としぐさ。 

  電気のない漆黒の闇にまたたく星空。 

  古代から、民話や創造性を生み出してきた原点が感じられる。

  この残された辺境の地の素晴らしさと、時にはそれ故に見られる貧しい暮らしを、ひっそりと味わい、愉しみたい方々は、乏しい旅行情報を基に、拠点の街パルからの旅をはじめることができるだろう。

  多くの人と人、自然との出会いを重ね、いくつもの未来への種を蒔いてきた中部スラウェシの地をそろそろ離れ、カジノキBroussonetia papyriferaを追って台東に向かおう。  
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# by PHILIA-kyoto | 2010-05-03 22:58 | スラウェシ現地情報2010  

中部スラウェシへの旅 2

豊かな自然に溢れ巨石遺跡のあるBada地域

  バダBada地域は、パルPaluからテンテナTentena経由で走行370キロほどの位置にある。パルからテンテナ経由チャーター・カーか隔日運転の乗り合いミニ・バスで行く方法がある。走行時間は休憩含め約10時間となる。なお、12月から4月頃の雨量の多い季節にはテンテナ経由の道路が通行止めとなる時がある。それ以外には、ギンプー経由のけもの道を、下の画像のように荷物を満載したバイク・タクシーで行くスリリングな方法もある。所要時間は8時間ほどだが一般向きではない。f0148999_21363665.jpg


  有名な高さ4mもあるSepeの巨石像、埋葬に使ったとされるカランバなど各所に巨石時代の遺物を見ることができる。また、新石器時代に上陸してきたオーストロネシア語族に起源を有し、今も「生きた化石」のように3500年ほど前と同様の道具で樹皮布(紙)を製作している人々の姿を見ることも出来る。最後の仕上げ段階で木製の砧(きぬた)を打つ姿は、日本の延喜式の時代を想起させる。f0148999_22104762.jpg

  バダ地域の平均的な高度は700m前後で、古代の人々が好む自然環境が豊かにあったのだろう。

  バダへはパルから案内ガイドを雇って同行するか、Bada地域のGintu村に住む英語ガイドAgus Tomaha氏に依頼するのが、安全で快適さを満たす必須要件だろう。Bada地域での宿泊所LosmenはBomba村にある。食事は用意してくれるが、特注しなければ宿泊客全員同じメニューの食事となる。温水シャワーはない。Tuareの宿泊所より評判はよい。電気の通じていない地域が多いが、宿泊所などでは夜間ジェネレーター発電で電気が供給されている。Bada地域では、限定された場所でのみSimpati社の携帯電話が通じるようだが、基本的には全域で携帯電話は使えず、電気の通じていない場所が依然多い。なお、高額の料金が課金されるが、衛星公衆電話がGintuなど域内数箇所に配置されているようなので、緊急時には衛星公衆電話を使うこととなる。
  日程に余裕がある時は、ポソ湖湖畔のテンテナのホテルIntim Danau Posoで宿泊すると、美しい山々を望む湖畔の朝の景色を満喫できる。湖畔のホテルでは温水シャワーが使える。下の画像は、バダへ向かう高台から見えるポソ湖だ。f0148999_2139734.jpg
  宣教師であり、多くの研究足跡を残したオランダ人クロイトA.C.Kruytの暮らしていた家が湖畔に今も残されている。

  かっては恐怖が吹き荒れたポソ地域であるが、2年前には目に付いた焼き討ちされた家も、今は撤去されるか、草に埋もれて見えなくなっていた。人々の努力もあり、平和が戻ってほしい。
  
  豊かな渓谷の美しさ、自然の恵み、歴史遺産に満ちた地域であることから、バンドンやジョグジャカルタなどに見られる「馬車での移動・観光」、「エコツアー」など、極力自然・環境破壊を抑えた観光開発が試みられてほしい。

数週間前に見つかったKololi村の考古遺跡

  f0148999_21394543.jpgBomba村の宿泊所からバイクで10分ほどの高台で、埋葬した骨の入った大きな陶器の壷が現時点では5個、住居の拡張工事の際に見つかった。まだ未発掘のエリアが多そうであるが、考古局の正式発掘日程が決まっていないため、応急の屋根を掛けて損傷を防いでいる。巨石時代、新石器時代などの遺跡が多い中部スラウェシであるが、発掘作業はほとんど進んでいない。

  もっと海外からの遺跡発掘調査団の派遣が期待される地域だ。
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# by PHILIA-kyoto | 2010-04-10 16:40 | スラウェシ現地情報2010  

中部スラウェシへの旅 1

オーストロネシア語族の移り住んだハイランド

  日本人旅行者が皆無に近い中部スラウェシ地域。
f0148999_2123030.jpg よく知られる俗化したトラジャより直線距離で150キロほど北の地域にあたる。
  柔和な母なる山々が連なるのどかな牧歌的風景。広がる草原に放牧された水牛の背には白鷺のような鳥が共存し止まっている。






フッと魚屋の庭先をのぞくと、メガリティック(巨石)時代の神秘的な上半身の像が立っていた。f0148999_21144147.jpg
  
今回で3度目となるBada地域への旅であるが、冒険者、残された辺境を愛する旅行者、自然と歴史・文化を愉しみたい人々には、本当にいいところだ。苦悩は、かっては豊かで、文化的にも発展していた地域が、オランダや日本の占領期に「貧しさ」「豊かな文化の破壊」が浸透してしまったことだ。皮肉なことのように思えるが、「貧しさ」がこのBadaの豊かな自然、人情を辺境の地にそっと残してくれたのかもしれない。それゆえに、今後の開発や発展は、エコロジカルな地域の自然や歴史・文化と調和した形で進められることが願われる。

旅の基点の街パル(Palu)
  
  パルは三方を山々に囲まれ、入り江に面した旅の基点となる街である。
f0148999_21165292.jpg
ジャカルタ、マカサール、デンパサールなどからの国内便が乗り入れている。新石器時代に海に進出したオーストロネシア語族の人々がこの入り江に現れた情景を思うと感動的だ。
  面白いことに、このパルの入り江では、きまって昼前になると海からの風が強まり白波が次々と押し寄せる。12時間ほど強風と荒波が吹き荒れると、風は急に止まり鏡の面のように静かな海となる。コバルト・ブルーに透き通る海に魚が泳ぐのが岸から見える。そして、また12時間ほどすると海からの強風と荒波が襲来するのである。f0148999_2118322.jpg
  パルには日本語の通じるスタッフが居るRama garden Hotelなどいくつもの快適なホテルがあるが、外貨両替所が市内に一ヶ所しかなかったり、クレジット・カードを使えないところが多いなど、整備の必要なところはまだ多くある。

州立のパル博物館は、地域の歴史と文化を知る上でまず初めに訪ねることを薦める。タクシーはメーター装備の車が多く、安心して使える。インドネシア語が不安な場合は、ホテルのスタッフに行き先などをきちっと説明してもらおう。 =続く= (Paluにて記す)
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# by PHILIA-kyoto | 2010-04-07 08:48 | スラウェシ現地情報2010  

日本での樹皮紙Beaten Bark Paper展

東京・王子の「紙の博物館」

  上記の場所で、2010年6月19日(土)~7月4日(日)の期間「新石器時代から花開いたアジアの樹皮紙Beaten Bark Paperの美」と題した企画展が予定されているようだ。
  現在知られる「漉いた紙」の起源を再考する上で、新石器時代に存在を認められる「樹皮紙」の高度な技術や美しさを、東京で、目の前で見聞できる機会はまたとない。
  会期中に講演会や、特別に「樹皮紙の古い文書」を手にできる特別企画もあるとのこと。
www.papermuseum.jp

  日本でも、大航海時代以前のアジアの先住民の美と尊厳を伝える企画展が、掘り起こされ実施されるようになったことを喜びたい。

旅に 

  旅の途中から、「オーストロネシアンと樹皮紙」について、新発見や印象に残ることをアップしていきたい。折からの豪雨で土砂崩れで道が消えていたり、電気のない地域、携帯の電波も通じない地域もあることから、波乱に充ちていることであろう。
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# by PHILIA-kyoto | 2010-03-09 00:05 | オーストロネシアン研究  

人類学者Raymond Kennedy

スラウェシの樹皮布/樹皮紙研究の先人達

  1950年4月27日か28日、ジャワ島のバンドンからジープでフィールド調査に向う途上のレイモンド・ケネディRaymond Kennedy(1906-1950)は、強盗に襲われ同乗のタイム誌特派員Robert Doyleと共に命を落とした。インドネシア独立戦争直後の混乱期の中での悲劇であったが、レイモンドは優秀なエール大学の研究者として1947年にカーネギー財団から5年間で150,000ドルの助成を受け、その成果を期待される途上だった。享年44歳であった。

  彼が27歳で発表した「Bark-cloth in Indonesia」(The Journal of the Polynesian Society Vo.43 1934)は、以前、このブロッグの2008年8月21日の「スラウェシ探訪記②」の中で紹介したオランダ人宣教師A.C.Kyuyt(1869-1949)の民族学における業績を受け継いだ、今日も非常に参考となる研究論文であった。

先人達が残したカジノキBroussonetia papyrifera vent のナゾ

  レイモンドRaymondは上記論文のp.242で以下のような興味ある指摘を残している。
 Adriani and Kruyt note also that word for the Trema amboinesis, the tree whose bast is commonly used in Celebes for bark-cloth, though now umayo, has an older form in the Parigi- kaili dialect, malo, which, they say, is undoubtedly the Polynesian malo or maro("loincloth"), the Fijian malo, the Massarete Buru(Moluccan) kamaru, the Mafur(New Gunia) mar.

 文中のMaloの木はTrema amboinesisではないと思われるが、Maloという発音がポリネシアなどのフンドシMaloに共通することの指摘は注目される。
 この点は、1978年に『タパ・クロースの世界』(源流社)と題し世に出した菊川、小網女史の現地調査報告では「ソロモン群島東部のサン・クリストバル島東部でカジノキをマロMaroと呼んでいることは、フィジー語に共通…」(p.32)とし、Maloとも表記している。マロ(Maro, Malo)に関し、両女史はアロシ語ではカジノキ、また、サモア語、ニウエ語、フィジー語、ハワイ語、ラロトンガ語、タヒチ語ではフンドシ(褌)を指すとしている。

  これは何を意味しているのだろうか? 

  日本でも縄文時代の遺跡から実が出土したとされ、平安貴族に愛でられたカジノキ。和紙の主原料コウゾはカジノキのハイブリッド種とされる。

  日本人の琴線を奏でるカジノキのルーツと移動のナゾを考える上で、科学的な解明が必要だ。

※マロとカジノキについて、2009年11月14日、12月3日付で関連記事あり。
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# by PHILIA-kyoto | 2010-02-27 10:12 | オーストロネシアン研究  

Creating better school Library

インドネシア国立図書館の学校図書館を良くする取組み

 昨年暮れに、大阪の私立学校図書館の廃棄児童書から段ボール箱1箱分を譲り受けて持参し、インドネシア国立図書館に寄贈した。今回は英語の児童書ばかりであったが、貧弱な児童書しか並んでいない国立図書館児童書室を訪ねる子供たちや、児童書出版に関わる専門の方々にも役立つとのことで、非常に喜ばれた。

  届けた際に、旧知のインドネシア国立図書館職員から、建築家たちとの共同製作の1冊の学校図書室改善、新設のためのハンドブック(2008年インドネシア国立図書館発行ISBN978-979-008-180-2 )をもらった。画像参照。f0148999_17451498.jpg
 全93頁で、学校図書室の現状チェックリスト形式の項、使いやすい図書館家具の配置とレイアウトの望ましい例と望ましくない例を写真で対比した項、使いやすい学校図書館家具の項、参考文献の項と、ビジュアルで見やすい良く工夫されたハンドブックだ。f0148999_10541871.jpg



  今後も、日本から中部スラウェシの学校図書室などに寄贈する児童書が、荒れて埃だらけの姿の学校図書室に乱雑に並べられても、子供達は、そのネガティブな雰囲気の中で本を扱い、読むことになる。その結果は、2,3年後には多くの寄贈本は痛んで、消えてなくなっていることが多い。
  「本を大事にし、読みたい環境」が伴う事はとても大事な基礎的な要因に思えたことから、インドネシア国立図書館職員と建築家で取り組む "Creating better school Library Program" に注目し、ささやかながら応援していければと考えている。
  インドネシア語だが、"Creating better school Library Program" についての取り組みが、以下のwebサイトに写真入りで紹介されていたので、ご覧いただればと願う。
www.arsitektur.net/perpustakaan
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# by PHILIA-kyoto | 2010-02-01 11:08 | インドネシアの図書館  

豊かな「紙の科学Science of Paper 」を求めて

「紙の科学」をもっと豊かに!!

今回は、少し難しいが未来への夢の表明だ。
世界各地の樹皮紙を調べていて、もっと「紙の魅力」「紙の奥深さ」を広げなければならない、と思う。

  一般に、現在の「紙の科学Science of Paper」とは製紙のための技術的な学問であったり、紙の物性を探求する程度に留まっている。その添え物のように製紙の歴史も取り上げられているが、非常に薄っぺらな内容だ。
紙に深く関わる「アート」「造形」「修復」「伝統工芸」などの諸分野があるが、恐竜を追いかける古生物学者のような夢を抱きチャレンジする人々は見かけない。
  「紙」は夢を抱いてチャレンジする内容のない、静的で魅力の少ない世界なのだろうか?

  いいや、そうではない。
  古代からの「紙」はダイナミックで、恐竜を追いかけるように謎に満ちた、ロマンあふれる対象なのだ。その魅力を、今まで引き出せていないだけだ。

  古代の「紙の起源」と推定される「樹皮紙Beaten bark paper」のことは、古代世界の歴史に深く埋もれてしまっている。
  
  インドネシア・スラウェシNapu渓谷の樹皮布/樹皮紙に、「透かし模様」を入れる石器ビーターの存在や老人たちの記憶は、どんな未来のロマンを引き出すのだろうか?

  バリ島のヒンドゥー教徒たちが歴史にとどめる「樹皮紙Ulantaga」は、どこに起源を有するのだろうか?

  オーストロネシア語族に深く関係すると考えられる、樹皮布製作用の現存最古とされる7000年前頃の石器ビーターが、以下の記事に見られるように香港島付近で見つかっているが、中国大陸での古代における樹皮紙の使用状況や、今に痕跡をとどめる習俗などは残っていないのであろうか? 
参考:The earliest archaeological evidence for bark-cloth production is from coastal Neolithic sites in the Pearl River delta region of southeast China (Figure 2). During the 1985 excavations, archaeologists from the Shenzhen Museum(1990, 1991) recovered 14 stone beaters in the basal layers of the site of Xiantouling.The first reports dated the site between c. 4500 and 3700 BC, but recent radiocarbon dates from the fifth season of excavations push the date back to 5000 BC(Shenzhen Museum 2007).The beaters were not isolated finds; the same tool types were recovered from an additional 10 archaeological sites in the region, including the site of Dahuangsha, which has a calibrated radiocarbon age of 4680–3870 BC (Chan Hing-Wah in Shenzhen Museum 1993:Table 1). Not only are the Xiantouling finds the earliest barkcloth beaters in the archaeological record, they also form the largest assemblage of prehistoric beaters found at a single site. The concentration of early forms in this region is significant from an ‘origin’ perspective, since the coastal Neolithic of South China has long been linked to early population movements into Island Southeast Asia (Chang 1964, 1977; Bellwood 1979; Higham 2003). by Cameron


  古代の「樹皮紙」は、現代人が考える以上に技術的に高度で、美しいものであった、と思われる。

  ダイナミックで未来に夢を抱かせる「紙の科学」に発展させていきたい。


  
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# by PHILIA-kyoto | 2010-01-21 20:52 | 紙の科学